第⑥章:影の歯 (3)
荷川取慧璃は、背後の闇を見た。
正面では紙の鳥が飛び交い、黒い影が暴れていた。
赤い床の上には羽根のような紙片が散り、紙の端が裂けるたび、細い悲鳴みたいな音が立つ。
だが、それよりも先に、彼の脳が拾ったのは背後の気配だった。
あの影だ。
まだいる。
まだ近い。
しかも、今度は鳥に押されていたものが少し崩れている。
黒い塊の輪郭が、ほんの一部だけ、床へにじんでいる。
カメラは、もう傷だらけだった。
レンズの端に細いヒビ。
画面の隅にもノイズ。
それでも録画は続いている。
赤い点がまだ点灯していた。
荷川取はそれを見て、喉を鳴らした。
もう長くは持たない。
自分の体も、カメラも、空間も。
全部が限界に近い。
彼は立ち上がった。
膝が震える。
足元は赤い水で滑る。
でも、立たないと終わる。
影か、鳥か、どちらかに捕まる。
どちらも嫌だ。
彼は腕で顔をかばいながら、壊れかけた廊下を見回した。
前は鳥。
後ろは影。
横にも扉があるが、どれが出口か分からない。
分からないなら、まず動くしかない。
その時、真横のロッカーが爆ぜた。
ガンッ。
鈍い衝撃で、扉が内側へひしゃげる。
何かが横からぶつかったのだ。
影の一撃だ。
鉄板のような音と一緒に、ロッカーが弾き飛ばされる。
その破片が床を滑って、荷川取の足元へ飛んだ。
彼は反射的に身を伏せた。
直後、頭上を紙の鳥がかすめる。
翼の縁が髪を裂く。
乾いた痛み。
熱い線。
そのまま、すぐ背後で鳥の一羽が壁へ叩きつけられた。
ばさっ。
紙の羽音が短く裂ける。
折り紙の体が、角をぶつけ、真っ二つに折れた。
赤い丸の印が歪む。
その鳥は、壁に貼りついたままぴくりとも動かなくなった。
紙が裂けた音は、思ったより生々しかった。
布でも骨でもないのに、死んだ音に近い。
荷川取の背中に冷たい汗が流れる。
あれが自分にも起こる。
そういう理解が、遅れて入ってくる。
紙の鳥たちは、ただ綺麗に飛んでいるだけではない。
傷つけば壊れる。
そして壊れる時は、あんな音がする。
それが、妙に脳へ残る。
次の瞬間、別の鳥が荷川取の腕を切った。
薄い切り傷。
布が破れる。
皮膚が熱い。
血が滲む。
その赤が出た途端、数羽が一斉にこちらを向いた。
彼は歯を食いしばった。
鳥は血を見ると大きくなる。
それがもう、身体で分かる。
なので、荷川取は腕を引き、肩をすくめ、できるだけ血を見せないようにした。
だが、完全には無理だ。
制服の袖が切れ、肘のあたりにも細かな傷が増える。
そのたび、周囲の紙の翼がざわつく。
影はその混乱の中で、ゆっくりと身を起こしていた。
黒い顔。
白い目。
白い歯のような口。
あれが再びこちらを見た。
荷川取は、それを見た瞬間、背中の筋肉が固まるのを感じた。
逃げろ。
だが、もう遅い。
影の腕が振られる。
ゴォン。
横のロッカーが、弾丸のように吹き飛んだ。
鋼の扉が宙を滑り、荷川取のすぐ横を通り過ぎる。
彼は床へ伏せた。
そして、その勢いで紙の鳥の一群が影へ叩きつけられる。
紙片が舞う。
赤い丸が散る。
その瞬間だけ、荷川取の視界は白と黒と赤でぐちゃぐちゃになった。
――今だ。
彼は起き上がる。
走る。
どこへ?
ロッカーの向こうに見える暗い隙間。
そこだ。
荷川取は、ほとんど転がるみたいにその間へ飛び込んだ。
後ろで、影が何かを投げた。
黒い塊。
おそらく、先ほど壊れた鳥の一羽だ。
死んだ紙の鳥が、空を切って飛んでくる。
だが、荷川取の右横をかすめただけで、壁にぶつかって砕けた。
ぱさっ、と乾いた音。
その破片が彼の頬へ当たる。
痛い。
でも、止まらない。
そこにあったのは、大きなロッカーの開口部だった。
ただの隙間ではない。
人ひとりが滑り込めるほどの空洞。
内部は真っ黒で、奥が見えない。
だが、今はそれしかない。
荷川取はカメラを胸に押し当て、その空洞へ身体を突っ込んだ。
中へ入る。
冷たい。
狭い。
金属の匂い。
埃。
錆。
背中が引っかかる。
彼は必死に腕を伸ばし、奥の板を蹴るようにして進んだ。
その先で、急に床がなくなる。
――落ちる。
視界がひっくり返る。
空間が回転する。
荷川取は声にならない息を漏らしながら、黒い穴へ飛び込んだ。
数秒。
数秒だけ、何もない。
その短い落下の間、耳元で紙の羽音も影の音も消えた。
代わりに、遠くで、金属同士が擦れる音だけが響く。
そして――
彼は着地した。
だが、まともな着地ではない。
足元は階段だった。
それも、長く、長く、続く階段だ。
しかも、上へも下へも終わらない。
学校の階段なのに、先が見えない。
左右の壁もない場所があれば、ある場所もある。
そこに立っている感覚は、巨大な迷宮の中央に放り込まれたみたいだった。
荷川取は一瞬、呼吸を忘れた。
黒い空。
階段の段。
遠くの手すり。
何もかもが薄い。
しかし、背後からはすでに何かが追ってくる気配がした。
彼は頭だけで振り返った。
その時、ロッカーの扉が、上の方で吹き飛ぶのが見えた。
影の一部が、そこから這い出ようとしている。
白い目。
黒い腕。
その一部が、荷川取の方へ伸びる。
彼は反射的に階段を駆け下りた。
いや、下りるというより、転がるように進む。
階段の段は均一ではない。
一段ごとに高さが違う。
つまずく。
膝が痛む。
だが止まれない。
カメラを胸に抱えたまま、彼は壁へ手をつく。
手すりを掴む。
冷たい金属。
掌が滑る。
赤い水が、まだ制服の裾に残っている。
上を見る。
影は、すでに階段へ出ていた。
その動きは速い。
階段を上から下へ、あるいは下から上へ、曖昧な速度で落ちてくる。
そのたび、手すりが軋む。
それを見た荷川取の心臓は、痛いくらいに跳ねた。
彼は飛び降りるように次の踊り場へ移る。
足が痛い。
だが、それどころではない。
階段は長い。
曲がる。
踊り場がある。
その先に、さらに階段がある。
しかも、途中で階の数が途切れている。
上に行くのか下に行くのか、分からない。
それでも、荷川取はカメラのズームを使って前方を確認した。
画面の先。
そこに、小さな明かりがあった。
扉のようなもの。
入口か出口か、はっきりしない。
だが、そこだけが白く見える。
それが見えた瞬間、荷川取の胸に、ほんのわずかだが希望が生まれた。
そこへ行けば、抜けられるかもしれない。
少なくとも、この階段地獄からは。
彼はカメラを抱え直し、さらに加速した。
階段を一段飛ばしで降りる。
いや、降りるだけではない。
途中で横へ跳ぶ。
手すりを蹴る。
壁を掴んで曲がる。
その動きはぎこちないが、必死だった。
彼の身体はもう、恐怖を受け入れる余裕がない。
ただ、逃げる。
その一点でしかまとまっていない。
影が後ろで追ってくる。
重い。
速い。
足音はないのに、空気が裂ける。
背後の暗さが、彼の背中に触れそうな距離まで来ているのが分かる。
そのたび、荷川取は肩をすくめ、さらに前へ飛ぶ。
だが、次の踊り場で足がもつれた。
段差を踏み外す。
膝が大きく曲がる。
そのまま階段に打ちつけられた。
ぐえっという、喉の奥だけの音が漏れる。
痛い。
鋭い。
だが、止まるわけにはいかない。
彼は歯を食いしばり、手で床を押して立ち上がった。
カメラが、胸の前からずり落ちかける。
慌てて掴み直す。
この機械だけは落とせない。
それが最後の糸だ。
その糸が切れたら、荷川取は本当にここで終わる。
後ろを一瞬だけ見る。
影が、階段の上から急速に降りてきている。
そのスピードはおかしい。
人間のものではない。
地面を踏んでいるというより、階段そのものを削っているみたいだった。
手すりが揺れる。
段が砕ける。
黒い顔が、少しずつ近づく。
荷川取は、もう一段、さらに一段と飛び降りる。
息が切れる。
だが、ついに踊り場の先に見えた。
あの白い光だ。
扉のような、入口のような、光の隙間。
彼はほとんど最後の力でそこへ向かった。
だが、その直前だった。
背後から、影が跳んだ。
いや、跳んだというより、落ちてきた。
重さが、そのまま速度になった。
荷川取の背中に衝撃。
空気が抜ける。
骨の内側が軋む。
手すりが折れる音。
そして、身体が前へ飛ばされた。
彼は階段の角を越え、下の踊り場へ叩きつけられた。
その途中で、何かが背中に絡みつく。
影だ。
捕まった。
そう思った直後、影の重さがそのまま荷川取の上に落ちた。
骨の音がした。
自分のものだと分かる音。
ごきっという鈍い破裂。
胸の奥で、何かが潰れる感覚。
息が、完全に止まる。
空気が入らない。
肺が開かない。
視界の端に白が走る。
荷川取は喉を鳴らしたが、声にはならなかった。
だが、その衝撃で、足元の階段が崩れた。
影の重さと荷川取の体重で、手すりが折れ、段が砕ける。
その破片が、上から下へ、雪崩のように落ち始めた。
轟音。
空間が揺れる。
そして、彼自身もろとも、階段の一部が外れる。
荷川取は、数段分、いや、数階分まとめて落ちた。
その途中で、影が彼を抱え込むようにして下へ引きずる。
重い。
だが、その重さが落下の勢いを少しだけ殺した。
完全な直撃ではない。
しかし、衝撃は強すぎた。
彼は別の踊り場へ叩きつけられた。
そこには、またあの白い入口のようなものがあった。
だが、彼の体はもうまともに動かない。
横向きに倒れ、床に滑る。
背中に硬いものが刺さる。
痛い。
熱い。
息が続かない。
影は、まだ上にいた。
完全に潰れきってはいない。
黒い塊が、階段の破片に半分埋まっている。
白い目だけが、まだ荷川取の方を見ていた。
あの顔。
あの口。
今にもまた動き出しそうだった。
だが、その時、さらに大きな破片が上から落ちた。
ドォン。
重い。
大きい。
階段の上部から剥がれ落ちたコンクリートの塊だ。
それが、ちょうど影の上へ落ちる。
影は一瞬だけ身をよじったが、間に合わない。
大きな塊が、その黒い頭上を叩き潰した。
さらにもうひとつ。
その後ろにも。
次々と。
崩落。
連鎖する破砕。
階段の上から、構造物そのものが壊れ始める。
その衝撃で、荷川取のいる踊り場までひびが走り、床が傾いた。
彼はその場でずるりと滑る。
壁にぶつかる。
肩が痛い。
だが、もう痛みを整理できる状態ではない。
破片が降る。
細かいもの。
大きいもの。
角張ったもの。
荷川取の腕に、顔に、脚に当たる。
そのたび、小さな裂傷が増える。
カメラが手から離れた。
床を転がる。
そのまま角へぶつかり、ケースが砕けた。
ぱき。
がしゃ。
画面が割れる。
レンズが砕ける。
録画ランプが消える。
破片が飛ぶ。
それは、彼が持っていた最後の証拠だった。
もう戻せない。
もう残らない。
その事実が、胸の痛みより遅れて突き刺さる。
荷川取は、片手で自分の体を支えようとした。
だが、腕に力が入らない。
呼吸が浅い。
いや、浅いどころではない。
ほとんど吸えていない。
口を開く。
なのに、空気が入ってこない。
視界の端が暗くなる。
左目のあたりに、何か温かいものが流れた。
血だ。
目に入る。
熱い。
視界の色が赤くにじむ。
その中で、黒い影の輪郭がまだ少しだけ残っていた。
だが、その影もまた、落ちてくるコンクリートに押し潰されていく。
荷川取は、床に横倒しのまま空を見た。
そこには、もう何もない。
黒。
ただ黒だけがある。
ノイズ。
静電気のような白いざらつき。
遠くで、コンクリートが崩れる音。
その音だけが、今の現実だった。
――たった一つの証拠のために。
その思いが、遅れてやってくる。
それがあるだけで、彼はここまで来た。
それがあれば、自分は正しかった。
だが、その証拠は砕けた。
カメラは粉々だ。
録画はもうない。
残るのは、暗い階段と、崩れた影と、体の中で壊れていく感覚だけ。
荷川取の息が、さらに細くなる。
胸が痛い。
視界が沈む。
耳の奥が白い雑音で満ちる。
身体の内部に血が溜まっていくみたいに、重い。
そして、何も見えなくなる。
黒が、黒が、黒が――
彼の世界は、ゆっくりと閉じた。
証明したかったものは、もう手の中にない。
それでも、彼の意識はまだ、それを探し続けていた。




