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フィオナとアレクシスの婚約が両国で正式に発表されたのは、初夏の陽射しが眩しい季節だった。
レグランド王国では公爵家から、ノルディス公国では大公府から、同時に発表された。二国間の通商を支えてきた二人の婚約は、政治的にも大きな意味を持つ。しかしそれ以上に、両国の民衆は純粋にこの知らせを祝った。
ルミエールの街では、商会の従業員たちが率先して祝賀の飾りつけを始めた。倉庫の前に花輪が掛けられ、通りには色とりどりの旗が翻る。
「フィオナさん、おめでとうございます!」
テオが満面の笑みで言った。十三歳の少年はこの半年で背が伸び、顔つきも少し大人びてきた。帳簿を抱える姿はすっかり商会の経理主任の風格がある。
「ありがとう、テオ」
「で、結婚したらフィオナさんはノルディスに行っちゃうんですか」
テオの声に、隠しきれない不安が滲んだ。フィオナは少年の頭をそっと撫でた。
「行かないわ。商会の本拠地はルミエールのまま。私は両国を行き来する形になるけれど、ここが私の居場所であることは変わらない」
テオの顔に安堵が広がった。
婚約の発表と同時に、フィオナは新たな通商協定の草案を自ら起草した。レグランド王国とノルディス公国の包括的な経済連携協定。保存食だけでなく、鉱物資源、工芸品、農産物を含む幅広い通商の枠組みを定めるものだ。
この協定の要は、ルミエールを国際貿易都市として位置づけることだった。三本の主要街道が交差するこの街を、二国間の物資と人の流れが交わる拠点にする。
フィオナは草案をアレクシスと詰めながら、同時に各方面への根回しを進めた。グラント伯爵を通じて評議会の支持を取り付け、独立商業連合の領主たちと個別に協議し、ルミエールの商人ギルドにも正式に提案した。
ギルド長バルトロメは、この半年で完全に態度を変えていた。独占令の騒動でギルドの権威は大きく傷つき、ヴァランティーヌ商会の存在感は無視できないものになっていた。
「フィオナ殿、国際貿易都市の構想は、ギルドにとっても大きな商機となりましょう。全面的に協力いたします」
かつて「お嬢様に商売ができるのか」と侮った男が、今は敬語を使っている。フィオナは皮肉を言いたい気持ちを抑え、にこやかに握手を交わした。勝者の余裕ではない。商売に私情は持ち込まないという信念だ。
ある午後、マティアスが事務室に来た。老経理士の目が潤んでいた。
「フィオナ、いや、お嬢様」
「マティアスさん、商会ではフィオナですよ」
「今日だけは、お嬢様と呼ばせてくれ」
マティアスは一冊の帳簿を差し出した。商会設立から現在までの全収支を記録した総勘定元帳だった。
「まとめました。一年間の記録です。最初の金貨五百枚の開業資金から始まって、今の年商金貨二千枚に至るまで。一銅貨の漏れもない」
フィオナは帳簿を受け取り、最初の頁を開いた。そこには、あの夜——婚約破棄の翌日に書いた文字がある。
「ヴァランティーヌ商会——設立準備」
涙の染みが残る、少し歪んだ文字。そこからすべてが始まった。
「マティアスさん。あなたがいなければ、この帳簿は一頁目で終わっていました」
「わしは数字を書いただけだ。物語を作ったのはお嬢様だ」
二人は無言で頷き合った。それだけで十分だった。
同じ頃、王都ではギルベルトがヴァランティーヌ公爵家の次期当主として正式に発表された。
十六歳——もうすぐ十七になる少年は、公爵家の書斎で父レオポルドから家紋の入った指輪を受け取った。
「早すぎると思うが、お前ならやれる。姉に負けるなよ」
「負けるつもりはありません。でも、張り合うつもりもありません。姉上は外から国を変えた。僕は内側から変えます」
ギルベルトはすでに改革の計画を練っていた。公爵家が管理する街道の近代化、領地内の教育制度の拡充、農業技術の改良。姉がルミエールで実現した「数字に基づく経営」を、公爵領全体に広げるつもりだった。
リュシエンヌは商会の護衛隊長として、新たに三人の女性剣士を雇い入れていた。かつて自分と同じように騎士団に入れなかった女性たちだ。
「あんたたちの腕は買ってる。ここじゃ性別は関係ない。実力がすべてだ」
三人が敬礼する姿を見て、リュシエンヌは目を細めた。かつて自分が欲しかった場所を、今度は自分が作る側になった。
テオは正式にマティアスの後継者として経理の修行を始めた。老経理士は渋い顔をしながらも、毎日嬉しそうに帳簿の読み方を教えている。
「わしより優秀じゃ、この小僧は」
「マティアスさん、それ三回目ですよ」
「何度でも言うわい」
ルミエールの街は、一年前とは見違えるほど活気に満ちていた。新しい商店が並び、街道には荷馬車がひっきりなしに行き交い、周辺の村からも人が集まってくる。一人の公爵令嬢が始めた小さな商会が、この街を変えた。
フィオナは商会の窓からその光景を見下ろし、隣に立つアレクシスの手をそっと握った。
「きれいな街になったでしょう」
「ああ。きれいな街だ」
「帳簿の数字では表せない価値が、ここにはある」
「同感だ」
二人は窓辺に並んで、ルミエールの夕暮れを見つめた。赤い屋根が夕日に染まり、街道の向こうに広がる麦畑が金色に輝いている。
この景色を守るために、二人はこれからも数字と向き合い続ける。ただし今度は、二人で。




