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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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事務室に沈黙が落ちた。


階下ではリュシエンヌが従業員たちを追い立てるように帰宅させている声が聞こえる。気を利かせたのだろう。マティアスとテオの姿もない。


フィオナとアレクシスは、机を挟んで向かい合っていた。ランプの炎が揺れ、二人の影が壁に伸びている。


「座って。お茶くらい出すわ」


「いらない」


「でもあなた、三日半も——」


「フィオナ」


アレクシスの声が、静かに、しかし確かに響いた。


「先に言わせてくれ。座ったら言えなくなる」


フィオナは口を閉じた。アレクシスの碧い瞳がまっすぐこちらを見ている。旅の疲労で声はかすれていたが、言葉は一つ一つ、正確に選ばれていた。


「嵐の夜、あなたが倒れかけたとき、私は怖かった。宰相になってから一度も感じたことのない恐怖だった。数字を失う恐怖じゃない。人を失う恐怖だ」


アレクシスは一歩、近づいた。


「裁判が終わった後、私は逃げた。あなたから離れれば冷静になれると思った。ノルディスに帰って仕事に没頭すれば、この感情を数字の裏に隠せると」


「……できた?」


「できるわけがなかった。報告書を書いても、あなたの顔が浮かぶ。帳簿を開いても、あなたが数字を追う横顔が重なる。ハインツに賢い馬鹿だと二度も言われた」


フィオナは唇を噛んで笑いを堪えた。失敗した。小さく噴き出すと、アレクシスが困った顔をした。


「笑うところじゃない」


「ごめんなさい。でも、ハインツさんの言葉が的確すぎて」


「否定できないのが辛い」


アレクシスはもう一歩近づいた。机の角を回り、フィオナの正面に立った。手を伸ばせば届く距離。


「フィオナ。あなたとは対等な関係でいたい」


「対等……」


「宰相と商会の代表ではなく。ノルディスの男とレグランドの女でもなく。ただの一人の男として言わせてほしい」


アレクシスが息を吸った。


「あなたが好きだ」


シンプルな言葉だった。飾りも、策略も、計算もない。十年間数字の裏に感情を隠してきた男が、すべての鎧を脱いで差し出した、裸の一言。


フィオナの目が潤んだ。


泣くまいと思った。あの夜——婚約破棄の夜に、泣くのは今日だけと決めたはずだった。けれど今、目の奥から湧き上がるものを止める術がなかった。


涙がこぼれた。一筋、二筋。頬を伝い、顎から落ちる。


「フィオナ? すまない、急だったか——」


「違う、違うの」


フィオナは涙を拭おうとして、うまく拭えなかった。次から次に溢れてくる。


「嬉しいの。ただ、嬉しいだけ」


笑いながら泣いていた。泣きながら笑っていた。二つの人生を通じて、こんな感情は初めてだった。前世の藤野真奈美も、この世界のフィオナ・ヴァランティーヌも、誰かにこんなふうに真っ直ぐ好きだと言われたことがなかった。


「計算外です、あなたは」


涙声で笑った。


「帳簿のどこにも、あなたの存在を計上する欄がなかった。売上にも原価にも利益にも入らない。なのに、あなたがいないと帳簿の数字が全部色あせて見える。こんなの、計算できない」


アレクシスの表情が緩んだ。緊張が解け、安堵が広がり、その奥から温かな光が滲み出してくる。


「計算できなくていい」


「よくないわ。私は経営者よ。数字で説明できないものは——」


「黒字だ」


「え?」


「あなたの隣にいるだけで、私の人生は黒字になる。それでいい」


フィオナは泣き笑いの顔のまま、ゆっくりと頷いた。


アレクシスの手がフィオナの頬に触れた。涙を指先で拭う。その手は三日半の騎行で荒れていたが、触れ方はどこまでも優しかった。


フィオナが目を閉じた。


唇が重なった。


ランプの光が揺れ、二人の影が壁の上で一つになった。帳簿の余白に書ききれなかった感情が、静かに溢れ出していく。



どれくらいそうしていたか分からない。


唇が離れたとき、フィオナはアレクシスの胸に額を預けていた。埃っぽい外套の匂いがした。その下に、彼自身の匂い——冬の森と、インクと、少しだけ汗の匂い。


「……お風呂に入った方がいいわ」


「今それを言うのか」


「三日半馬に乗り続けた人の匂いがする」


「ロマンチックな余韻が台無しだ」


二人は額を合わせたまま笑った。


階下から、堪えきれなくなったらしいリュシエンヌの声が上がった。


「おーい、聞こえてるぞ! 全部聞こえてるからな!」


続いてマティアスの咳払い。テオの「えっ、何が起きたんですか」という間の抜けた声。


フィオナは真っ赤になり、アレクシスは天を仰いだ。


商会の仲間たちが窓の下から覗いている気配がした。リュシエンヌの口笛。マティアスの穏やかな笑い声。テオの「あ、キスしたんだ」という無邪気な一言。


フィオナは両手で顔を覆った。耳まで赤い。


「帰って。お風呂に入ってから出直して」


「承知した。では明日——」


「明日の朝。朝食を用意しておくから」


アレクシスは微笑み、埃まみれの外套のまま階段を下りていった。階下で仲間たちの拍手と歓声が湧き上がるのが聞こえた。


一人になった事務室で、フィオナは帳簿を見つめた。開きっぱなしの頁の余白に、さっき落としたペンのインクが小さな染みを作っている。


その染みの横に、フィオナはそっとペンで書き添えた。


小さなハートマーク。


帳簿に記された、初めての計算外。

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