32
ノルディス公国の大公ヴィルヘルムは、齢六十を超えた壮健な老人だった。
北方の荒野で鍛えた体は今も衰えを知らず、白い顎鬚を蓄えた顔には、厳しさと慈愛が同居している。孤児から成り上がったアレクシスを宰相に抜擢したのはこの大公であり、アレクシスにとっては主君であると同時に、最も近い父親代わりの存在だった。
大公の私室に通されたアレクシスは、玉座の前に片膝をついた。
「大公殿下。私事で恐縮ですが、お願いがございます」
「珍しいな、アレクシス。お前が私事で訪ねてくるなど、十年で初めてだ」
大公は椅子に深く腰掛け、白い眉の下からアレクシスを見つめた。
「申し上げます。レグランド王国のフィオナ・ヴァランティーヌ嬢に、正式に求婚したく存じます」
大公の表情は変わらなかった。しかし目の奥に、かすかな光が灯った。
「理由を聞こう」
「彼女は我が国の通商相手であり、保存食技術の提供者であり、この大陸で最も優秀な経営者の一人です。政治的にも——」
「アレクシス」
大公が遮った。
「政治の話はいい。お前の言葉で言え」
アレクシスは口をつぐんだ。政治の話なら何時間でもできる。だが今求められているのは、宰相アレクシス・ヴェルントではなく、一人の男としての言葉だ。
長い沈黙の後、アレクシスは顔を上げた。
「あの人がいなければ、私は良い宰相にはなれません」
大公は片眉を上げた。
「私は数字の中で生きてきました。孤児院で算術を覚え、数字で結果を出し、数字で信頼を勝ち取った。数字は裏切らない。数字に感情はない。それが私の強みであり、同時に枷でもありました」
アレクシスの声が震えた。十年間の宰相生活で、こんなふうに声を震わせたことは一度もない。
「フィオナは、同じように数字を愛する人間です。しかし彼女は数字の外にも世界を持っている。仲間を集め、信頼を築き、人の心を動かす。私にはそれができなかった。彼女の隣にいると、数字だけでは見えないものが見えるようになる」
大公は黙って聞いていた。
「私事で恐縮ですが、あの女性がいなければ、私は良い宰相にはなれません」
同じ言葉を繰り返した。それ以上うまく言える言葉が、見つからなかったからだ。
大公は顎鬚を撫で、ゆっくりと立ち上がった。アレクシスの前に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「十年待ったぞ、この瞬間を」
「殿下……?」
「お前が数字以外のものに心を動かされる日を、ずっと待っていた。宰相としてのお前は完璧だ。だが完璧なだけの人間は脆い。お前にはずっと、弱さが足りなかった」
大公は笑った。厳格な統治者の顔ではなく、子の成長を喜ぶ父親の顔だった。
「行ってこい。馬を用意させる。最速の馬をな」
ノルディス公国からルミエールまでは、通常の行程で六日。アレクシスは三日半で走破した。
宰相の威厳も何もあったものではなかった。護衛のハインツだけを伴い、替え馬を三度乗り換え、宿には最低限の時間しか泊まらず、夜明け前に出発して日暮れ後まで走り続けた。
三日目の夕方、街道の向こうにルミエールの赤い屋根が見えたとき、アレクシスは馬上で笑った。生まれて初めて、目的地が待ち遠しいという感覚を知った。
商会の倉庫に着いたのは、日が沈んだ直後だった。
一階の作業場にはまだ明かりが灯っている。扉を開けると、従業員たちが驚いた顔でこちらを見た。旅塵にまみれ、髪は乱れ、外套は埃だらけ。宰相の面影は欠片もなかった。
「アレクシス閣下!?」
リュシエンヌが目を丸くした。
「フィオナは」
「二階だ。帳簿と格闘してる」
アレクシスは階段を駆け上がった。ハインツが後ろで「閣下、せめて埃を払ってから——」と言いかけたが無視した。
事務室の扉を開けた。
フィオナが机に向かっていた。ランプの光の中で帳簿を広げ、ペンを走らせている。ノックもなく扉が開いたことに驚いて顔を上げ、そこに立つ人物を見て、ペンを取り落とした。
「アレクシス……? なぜ——」
「三日半かかった」
息を切らしながら、アレクシスは言った。
「ノルディスからルミエールまで、三日半。通常は六日のところを半分で走ってきた。報告書が理由じゃない。追加条項でもない」
フィオナは立ち上がった。目が大きく見開かれている。
「なぜ」
「言いに来た。嵐の夜の続きを」
アレクシスの碧い瞳が、まっすぐフィオナを見つめていた。旅の疲労で隈だらけの顔。埃まみれの外套。乱れた銀髪。それでもその瞳だけは、澄み切っていた。
フィオナの心臓が、壊れるほど強く鳴った。




