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裁判が終わり、独占令が撤回され、ヴァレリアが修道院に送られてから一週間。
フィオナはルミエールに戻り、日常を取り戻しつつあった。商会の業務は急速に正常化し、かつて独占令で取引を止められていた商人たちが次々と取引再開を申し入れてきた。保存食の需要は以前にも増して高まっている。
だが、一つだけ日常に戻らないものがあった。
アレクシスからの連絡が途絶えていた。
裁判の前後、アレクシスはノルディス公国の外交声明を出すために奔走してくれた。しかし裁判が終わった翌日、「本国での公務が立て込んでいる」という短い書簡を残して、ルミエールを発ってしまった。
それきりだった。
フィオナは気にしないふりをしていた。帳簿に向かい、新規事業の計画を練り、従業員の給与計算をする。仕事は山のようにあった。独占令の間に滞った受注の処理、新しい取引先との契約、ノルディスへの納入スケジュールの調整。忙しさに身を投じれば、余計なことを考えずに済む。
しかし夕方になって茶館の前を通るたびに、銀髪の青年がカウンターの隅に座っていた光景が脳裏をよぎった。あの日、名前も名乗らずに経済論を語り合った夕暮れ。それが始まりだったのだと、今なら分かる。
「フィオナ、また茶館の前で足が止まってたぞ」
リュシエンヌが呆れた声で言った。
「止まってないわ。歩調が緩んだだけよ」
「同じだろ」
リュシエンヌは壁にもたれ、腕を組んだ。
「あの宰相殿、逃げたんじゃないか」
「逃げた?」
「自分の気持ちから。あたしはああいう手合いを見たことがある。強い人間ほど、自分の弱さを認めるのが怖い。あの男は仕事では最強かもしれないが、恋愛では臆病者だ」
フィオナは返す言葉がなかった。リュシエンヌの観察眼は、剣だけでなく人の心にも鋭く届く。
同じ頃、ノルディス公国の宰相府で、アレクシスは書類の山に埋もれていた。
帰国してから一週間、ほとんど休みなく働いている。外交報告書の作成、議会への説明、通商条約の運用細則の策定。どれも重要な仕事だったが、アレクシスは自分がそれを口実にしていることを自覚していた。
フィオナから離れるための口実。
嵐の夜に口にした言葉。「取引先として、ではなく」。あの一言が、アレクシスの中で反響し続けている。
公国の宰相と他国の公爵令嬢。しかも通商条約の当事者同士。私情を挟めば、協定の信頼性が揺らぐ。もし関係が破綻すれば、二国間の外交に亀裂が入る。そのリスクを、宰相として取るべきではない。
理性はそう告げている。
だが心は別のことを囁いている。あの泥だらけの倉庫で感じた胸の痛みを、数字では説明できない。帳簿を開くフィオナの横顔を思い出すだけで、心臓が跳ねる。月夜の中庭で聞いた彼女の声が、耳の奥に残って消えない。
「閣下」
ハインツが執務室に入ってきた。書類の束を机に置きながら、いつもの淡々とした口調で言う。
「ルミエールからの通商報告書です。ヴァランティーヌ商会の月次売上は過去最高を記録したそうです」
「そうか」
「それと、商会の代表者から宰相府宛てに業務連絡が一通。追加条項の確認事項について、閣下のご回答を求めています」
業務連絡。フィオナらしい。私的な手紙ではなく、あくまで公式な業務として連絡を寄越す。アレクシスが距離を置いたことを察して、彼女もまた線を引いたのだ。
その事実が、胸に刺さった。
「閣下、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「宰相閣下は、賢い馬鹿ですね」
「……それは前にも聞いた」
「繰り返す価値があると判断しました」
ハインツの声に、珍しく感情がこもった。
「閣下。私は十年間お仕えしてきましたが、あなたが仕事以外のことで心を動かされたのを見たのは初めてです。それを手放すのは、宰相として賢い判断かもしれません。しかし一人の人間としては、愚かの極みです」
アレクシスは黙った。
「あの方がいなければ、閣下は良い宰相にはなれるかもしれません。しかし良い人間にはなれない。数字だけで生きる人生を、閣下は本当に望んでおられるのですか」
窓の外で、春の雪解け水が屋根から滴り落ちる音がした。ノルディスの長い冬が、ようやく終わろうとしている。
アレクシスは立ち上がった。
「ハインツ、大公殿下との面会を設定してくれ」
「いつですか」
「今すぐだ」




