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裁判から三日後。
フィオナはまだ王都に滞在していた。通商条約の追加事項の調整と、独立商業連合の今後について各領主と話し合う必要があったからだ。
公爵邸の客間で書類を整理していると、使用人が来訪者を告げた。
「ルシアン殿下がお見えです」
フィオナの手が一瞬止まった。
「……お通しして」
使用人が去った後、フィオナは深く息を吸い、姿勢を正した。心に波は立たない。ただ、この会話がいつか来ることは分かっていた。
扉が開き、ルシアンが入ってきた。
かつての第二王子の姿は変わっていた。顔はやつれ、目の下に隈がある。王子の正装ではなく質素な上着を着ており、肩を落とした姿は年齢以上に老けて見えた。
「久しぶりだな、フィオナ」
「ルシアン殿下。お掛けになってください」
二人は客間の椅子に向かい合って座った。テーブルの上に使用人が紅茶を置いていったが、どちらも手をつけなかった。
しばらくの沈黙の後、ルシアンが口を開いた。
「俺は、間違っていた」
低い声だった。視線は膝の上の拳に落ちている。
「ヴァレリアに騙された。いや、騙されたんじゃない。俺が自分で見ようとしなかっただけだ。彼女の嘘も、お前の本当の姿も」
フィオナは黙って聞いていた。
「商会のことは聞いている。保存食でルミエールを変えて、ノルディスとの条約を結んで、独占令にも負けなかった。お前がそんな人間だったなんて、三年間一緒にいて気づかなかった」
「それは殿下の責任ではありません。私も、婚約者の前では本当の自分を出せなかった」
「いや、俺の責任だ。お前を見なかった。見ようとしなかった。退屈だと決めつけて、目の前の人間を理解する努力を放棄した。それが全部の始まりだった」
ルシアンの声が震えた。拳が白くなるほど握りしめられている。
「フィオナ。頼みがある」
「何でしょう」
「戻ってきてくれないか。もう一度、婚約を——」
「殿下」
フィオナの声は穏やかだったが、確かな拒絶を含んでいた。ルシアンの言葉が途切れた。
フィオナは机の引き出しから帳簿を一冊取り出した。商会の経営状況を記した帳簿ではない。レグランド王家の財政状況をまとめた分析資料だった。ギルベルトの情報とマティアスの試算を元に作成したものだ。
帳簿を開き、ルシアンの前に差し出した。
「殿下、この数字をご覧ください」
ルシアンは困惑しながら帳簿に目を落とした。
「王家の年間歳出と歳入。ヴァレリア嬢に費やされた支出の累計。モンフォール家から回収不能な持参金。独占令による経済損失の推計。すべて合算すると——」
フィオナは帳簿の最終行を指し示した。
「王家の実質的な負債は金貨三千枚を超えています」
ルシアンの顔が蒼白になった。
「この負債を抱えた王家に、私が婚約者として戻る経済的合理性はありません」
「経済的合理性……? 俺は、そういう話をしているんじゃない」
「でも私は、そういう話をしています」
フィオナは帳簿を閉じた。
「殿下。これは意地悪で言っているのではありません。殿下が私に戻ってきてほしいと思う気持ちが、本当の愛情なのか、それとも失ったものへの未練なのか。それを考えていただきたいのです」
ルシアンが唇を噛んだ。
「私の答えはこうです。この負債額で? 投資価値がございませんの」
冷たい言葉だった。だがフィオナの目は冷たくなかった。むしろ静かな悲しみを湛えていた。これは復讐の台詞ではない。別れの言葉だった。
ルシアンは長い間何も言えなかった。やがてゆっくりと立ち上がり、フィオナに背を向けた。
「……すまなかった」
「謝る必要はありません。殿下はこれから、ご自分の足で歩いてください。私もそうしました」
ルシアンは振り返らなかった。扉を開け、回廊に出て、そのまま去っていった。足音が遠ざかり、やがて静寂だけが残った。
扉が閉まった後、フィオナは椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「……これで、終わり」
呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
三年間の婚約。五ヶ月前の破棄。そして今日の再会と拒絶。長い回り道だったが、ようやくこの物語に終止符を打てた。ルシアンを恨んではいない。憎んでもいない。ただ、もう自分の人生の登場人物ではないのだと、静かに理解しただけだ。
紅茶はすっかり冷めていた。フィオナはそれを一口飲み、立ち上がった。窓の外では春の風が桜に似た花の花びらを舞い上げている。
過去との決算は済んだ。帳簿の最後の行に、フィオナは心の中で「完了」の二文字を記した。
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