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結婚式の朝、ルミエールは秋晴れに恵まれた。
ちょうど一年前、フィオナがこの街に馬車で到着した日と同じ季節。あのとき埃っぽい倉庫の前に立った公爵令嬢は、今日、大聖堂の控え室で純白のウェディングドレスに身を包んでいる。
「姉上、お綺麗です」
ギルベルトが控え室に入ってきた。十七歳になった弟は背丈がフィオナを追い越し、公爵家の紋章入りの正装がよく似合う凛々しい青年になっていた。
「ありがとう。ギルベルトも立派よ」
「今日はエスコート役を仰せつかりましたので。父上の代わりに」
レオポルド公爵は持病の腰痛が悪化し、王都から長距離の移動が難しくなっていた。手紙には『娘の晴れ姿を見届けられないのは無念だが、ギルベルトに任せる。幸せになれ』とだけ書かれていた。そっけない文面の端に、インクの滲みがあった。泣いたのだろうと、フィオナは思った。
「フィオナ、準備はいいか」
リュシエンヌが扉から顔を覗かせた。護衛隊長は今日も男装だが、いつもの革の上着ではなく深い青の礼服を着ている。赤い短髪を整え、胸には商会の紋章のブローチ。
「リュシエンヌ、似合ってるわ」
「うるさい。一生に一度だから着てやっただけだ」
照れ隠しに顔を背けたリュシエンヌの耳が赤い。フィオナは微笑んだ。
ルミエール大聖堂は、この街で最も古い石造りの建物だった。
高い天井にステンドグラスの光が射し込み、聖堂内を色とりどりに染めている。長椅子には両国の要人が並んでいた。レグランド王国からは国王フリードリヒ三世と王妃、グラント伯爵をはじめとする独立商業連合の領主たち。ノルディス公国からは大公ヴィルヘルムと外交官団。
そして商会の仲間たち。マティアスは一番前の席で眼鏡を拭いている。その隣でテオが居心地悪そうに正装の襟元をいじっていた。商会の従業員たちが後方の席を埋め、周辺の農家の人々や村長たちも駆けつけてくれた。
オルガンの音色が聖堂に響き渡った。
ギルベルトに手を引かれ、フィオナが聖堂の入口に立った。深呼吸をする。
長い通路の向こうに、祭壇の前でアレクシスが待っている。黒い礼服に銀の飾緒。銀色の髪がステンドグラスの光を受けて虹色に輝いていた。碧い瞳がまっすぐフィオナを見つめている。
一歩を踏み出した。
通路を歩きながら、フィオナの目に一年間の記憶が走馬灯のように流れた。婚約破棄の夜。涙の染みた帳簿。仲間との出会い。ルミエールの朝。茶館での邂逅。嵐の夜。帳簿の余白のハートマーク。
長い道のりだった。けれど、一歩一歩がここに繋がっていた。
通路の途中で、ふと視線を感じた。長椅子の端、目立たない場所にルシアンが座っていた。招待状は出していない。国王に同行する形で来たのだろう。
一瞬だけ目が合った。
ルシアンの目には、後悔とも祝福ともつかない複雑な光があった。フィオナは小さく微笑み、前を向いた。もう振り返る必要はない。
祭壇の前に着いた。ギルベルトがフィオナの手をアレクシスに渡した。弟は小さく「よろしくお願いします」と囁き、席に戻った。
アレクシスの手は温かかった。あの嵐の夜に自分を支えてくれた手。帳簿の数字を追う鋭い手。馬の手綱を三日半握り続けた手。
「緊張しているか」
アレクシスが小声で聞いた。
「少しだけ。あなたは?」
「報告書の百倍緊張している」
フィオナは笑いを噛み殺した。
司祭が二人の前に立ち、誓いの言葉を促した。
アレクシスが先に口を開いた。
「フィオナ・ヴァランティーヌ。あなたを妻として迎え、対等な伴侶として共に歩むことを誓います。数字の上でも、数字の外でも」
フィオナが続けた。
「アレクシス・ヴェルント。あなたを夫として迎え、対等な伴侶として共に歩むことを誓います。黒字の日も、赤字の日も」
聖堂の中にくすくすと笑いが広がった。二人らしい誓いの言葉だった。
指輪が交わされた。唇が重なった。聖堂中から拍手が湧き起こった。
アレクシスがフィオナの耳元で囁いた。
「これは最高の投資だ」
フィオナが囁き返した。
「利回りは生涯かけて証明しますわ」
それから数年後。
ルミエールは名実ともに国際貿易都市となり、二国間の経済の要として繁栄していた。赤い屋根の街並みは拡大し、新しい商店や工房が立ち並び、街道には各国の荷馬車がひっきりなしに行き交っている。
ヴァランティーヌ商会の倉庫は三倍に拡張され、従業員は百人を超えた。マティアスは正式に引退したが、毎朝商会に顔を出しては帳簿をめくっている。テオは若き経理主任として商会の数字を一手に担い、その名は二国間の商人の間で広く知られるようになっていた。
リュシエンヌの護衛隊は十人に増え、ルミエールの治安維持にも一役買っている。彼女自身は相変わらず男装で、相変わらず口が悪く、相変わらず頼もしかった。
ギルベルトはヴァランティーヌ公爵家を継ぎ、領地改革を着々と進めている。姉譲りの数字への鋭さと、父譲りの温厚さで、若き公爵は領民から慕われていた。
ある秋の朝。
商会の二階の事務室で、フィオナは帳簿を開いていた。隣の椅子にはアレクシスが座り、同じように書類に目を通している。二人の間の机には、小さな揺り籠が置かれていた。生後六ヶ月の赤ん坊が、銀色の産毛に蜂蜜色の瞳を覗かせて、すやすやと眠っている。
「さて、今日の決算は?」
アレクシスが帳簿から顔を上げた。
フィオナは帳簿の最終行に目を落とし、微笑んだ。
「今日も黒字ですわ、あなた」
窓の外で、ルミエールの朝が始まっている。赤い屋根の向こうに、秋の空が高く澄み渡っていた。一年前と同じ空。けれど景色は、まるで違う。
帳簿を閉じたフィオナは、眠る我が子の頬をそっと撫で、隣の夫の手に自分の手を重ねた。
計算外の幸せが、今日も帳簿の余白から溢れている。




