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春の足音が近づく頃、ヴァレリアは焦っていた。
独立商業連合の嘆願書とノルディスの声明が同時に王家を揺さぶり、国王は独占令の撤回を真剣に検討し始めている。評議会でもグラント伯爵を筆頭に撤回派が勢力を増しつつあった。
このままでは負ける。
ヴァレリアはモンフォール侯爵邸の自室で、爪を噛みながら考えていた。翡翠色の瞳には追い詰められた獣の光が宿っている。
独占令では潰せなかった。法的な手段では時間がかかりすぎる。ならば、もっと直接的な方法しかない。
ヴァレリアは侍女を呼び、一つの指示を出した。
ルミエールの商会に、新しい従業員が応募してきたのはその三日後のことだった。
二十代半ばの女性で、名をエルザと名乗った。前職は王都の菓子店で、食品の取り扱いに慣れているという。人手不足の商会にとっては渡りに船の人材だった。
フィオナは面接で彼女と話し、特に問題を感じなかった。受け答えは丁寧で、手先も器用そうだ。翌日から保存食の製造部門に配属した。
テオだけが、妙な顔をしていた。
「フィオナさん、あの新しい人、少し気になります」
「何が?」
「うまく言えないんですけど……数字が合わない感じがする」
テオの直感は数字に基づいている。しかし今回は具体的な根拠がなく、フィオナも「気にしすぎよ」と流してしまった。
エルザが商会に入って五日目の朝。
テオが早出をして倉庫の在庫確認をしていたとき、奇妙なことに気づいた。
前日に製造した林檎の蜜煮の瓶詰め、二十本のうち三本の蓋の状態がおかしい。封蝋の色がわずかに違う。通常使う深紅の蝋ではなく、それよりほんの少しだけ明るい赤。
テオは棚から三本を取り出し、蓋を観察した。蝋を剥がすと、下の蓋にかすかな傷がある。一度開けて、再び封じ直した痕跡だった。
心臓が跳ねた。
テオは瓶を一本開け、中身の匂いを嗅いだ。林檎の甘い香りの下に、微かに刺すような異臭がある。腐敗ではない。何か別のものが混入されている。
「フィオナさん!」
テオの叫び声が倉庫に響いた。フィオナが事務室から飛び出してきた。
「どうしたの」
「これを見てください。この三本、蓋が開けられています。中に何か入れられてる」
フィオナは瓶を受け取り、匂いを確かめた。顔色が変わった。
「毒……?」
「分かりません。でも普通の蜜煮の匂いじゃない」
フィオナは瓶を机に置き、頭を高速で回転させた。
毒物の混入。これが出荷されていたら。客が口にしていたら。商会は終わる。信用の崩壊は、独占令の比ではない。
「テオ、昨日の製造工程で、この瓶に触れたのは誰」
テオは製造記録を確認した。昨日の午後の製造は、従業員三人の担当だった。フィオナの目が一つの名前で止まった。
エルザ。
「リュシエンヌ!」
リュシエンヌが剣を帯びて駆けつけた。フィオナは手短に状況を説明した。
「エルザを見つけて。逃げる前に」
しかし遅かった。エルザの宿を確認すると、すでに荷物ごといなくなっていた。昨夜のうちに姿を消したらしい。
リュシエンヌが壁を拳で叩いた。
「くそっ、最初から仕込みだったのか」
フィオナは汚染された三本の瓶を慎重に別の箱に移し、残りの在庫をすべて検査するよう指示した。テオが全従業員を集め、一本一本の瓶の封蝋を確認する作業が始まった。
結果、汚染されていたのは三本だけだった。テオの早期発見がなければ、今日の出荷に紛れ込んでいた可能性が高い。
全ての検査が終わった夕方、フィオナは事務室で一人、机に両手をついていた。
怒りが体の芯から湧き上がってきた。
これまでの嫌がらせとは次元が違う。ギルドの検査妨害も、独占令も、いわば経済的・政治的な攻撃だった。しかし毒物混入は、人の命に関わる犯罪だ。
ヴァレリアはそこまでするのか。
フィオナの手が震えていた。怒りだけではない。恐怖もあった。もしテオが気づかなかったら。もし子どもがあの瓶詰めを食べていたら。
「フィオナ」
リュシエンヌが入ってきた。普段は軽口の多い女剣士の表情が、岩のように硬い。
「犯人の目星はついている。エルザは偽名だろうが、王都の菓子店に問い合わせればすぐ分かる。追うか」
「追わなくていい。エルザは末端の駒よ。追っても証拠は出ない。ヴァレリアは自分の手を汚さない」
「じゃあどうする」
フィオナは目を閉じ、深く息を吸った。怒りを数字に変換する。いつものやり方だ。だが今回は、数字だけでは足りない。
目を開けたとき、フィオナの瞳には静かな炎が燃えていた。
「ここまでするなら、私も容赦しません」
声は低く、穏やかだった。だからこそ、その言葉には有無を言わさぬ迫力があった。
マティアスとテオが事務室に入ってきた。四人が顔を見合わせる。
「汚染された瓶は証拠として保全します。毒物の成分を薬師に分析してもらい、入手経路を特定する。同時に、ギルベルトに連絡して王都で同じ毒物の取引記録を調べてもらう」
フィオナは帳簿ではなく、白紙の紙を広げた。
「反撃の計画を立てます。もう守るだけの段階は終わりよ」
四人の目が頷いた。嵐の後の倉庫に、静かな決意が満ちていた。




