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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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嵐が去った翌朝、ルミエールの空は嘘のように澄み渡っていた。


商会の倉庫は泥だらけだったが、保存食の在庫はほぼ無事だった。全員で早朝から掃除に取りかかり、昼過ぎには営業を再開できる状態に戻った。


しかしフィオナの心は、帳簿の上で迷子になっていた。


事務室の机に向かい、ノルディスへの納入記録を整理しているはずだった。ペンを持ち、数字を書き込む。だが三行も進まないうちに、昨夜のアレクシスの声が頭の中に蘇る。


あなたが倒れたら、私は困る。取引先として、ではなく。


あの言葉は、どこまで本気だったのか。嵐の夜の高揚が言わせた一時の感情なのか、それとも——。


フィオナは帳簿を閉じ、額に手を当てた。前世の藤野真奈美は恋愛に縁の薄い人間だった。仕事に打ち込むあまり、気づけば三十路を超えていた。この世界でも、婚約者との関係は政略の産物で、恋とは程遠いものだった。


つまりフィオナ・ヴァランティーヌは、二つの人生を通じて恋の初心者なのだ。


「フィオナさん、顔が赤いですよ」


テオが書類を持って事務室に入ってきた。フィオナは慌てて帳簿を開き直した。


「暑いだけよ。冬なのに、この部屋は暖炉が利きすぎるわ」


「冬ですよ。暖炉は今朝まだつけてません」


テオの冷静な指摘にフィオナは返す言葉がなかった。


階下からリュシエンヌの声が上がった。


「フィオナ、あんた今日何回帳簿の同じ頁を開いてる? 団長がそんなんでどうする」


「数えてたの……」


「七回だ。七回同じ頁を開いて、一行も進んでない」


フィオナは観念して帳簿を閉じた。仲間たちの目が温かいのが余計に恥ずかしい。マティアスだけは黙って自分の帳簿に向かっていたが、口元がわずかに緩んでいるのが見えた。



一方、アレクシスはルミエールの宿で同じ症状に陥っていた。


宰相府への報告書を書いているはずが、ペンが止まる。昨夜、あの言葉を口にした瞬間の記憶が繰り返し蘇る。


取引先として、ではなく。


言ってしまった。十年間、感情を数字の裏に隠して生きてきた自分が、泥だらけの倉庫で、よりによってあんな台詞を。


「閣下、報告書はまだですか」


ハインツが部屋の外から声をかけた。


「もう少しかかる」


「先ほどから二時間経っておりますが」


「複雑な案件なんだ」


「保存食の納入報告書のどこが複雑なのか、私には分かりかねますが」


アレクシスは黙ってペンを握り直した。白紙の報告書が恨めしい。ハインツの足音が遠ざかるのを待ってから、椅子の背にもたれて天井を見上げた。


冷静になれ、アレクシス・ヴェルント。お前はノルディス公国の宰相だ。他国の公爵令嬢に——しかも通商相手に——私情を挟むことがどれほど危険か、分かっているはずだ。


分かっている。分かっているが、あの泥まみれの倉庫で、疲労で膝を折ったフィオナを支えたとき、腕の中にあった体の華奢さと、それでも折れない瞳の強さに、胸の中で何かが決壊した。


ハインツが再び扉の向こうから声をかけた。


「閣下。失礼を承知で申し上げます」


「何だ」


「宰相閣下は、賢い馬鹿ですね」


沈黙が落ちた。


「……どういう意味だ」


「国政においては大陸随一の頭脳をお持ちですが、こと自分の感情に関しては、驚くほど鈍い。いえ、鈍いのではなく、認めることを怖がっておいでだ」


アレクシスは反論しようとして、やめた。護衛官の言葉は、的を射すぎていた。


「ハインツ」


「はい」


「報告書は明日出す。今日はもういい」


「御意。それと閣下、ヴァランティーヌ商会の方角は宿を出て右です」


「誰も行くとは言っていない」


「ええ、念のためです」



結局、アレクシスはその日の夕方、商会を訪れなかった。フィオナも、宿に出向かなかった。


二人とも、互いを意識しすぎて動けなくなっていた。


フィオナは深夜まで帳簿と向き合い、数字の中に逃げ込んだ。売上の推移、原価率の変動、在庫回転率——数字は裏切らない。数字は照れない。数字に胸は高鳴らない。


だが帳簿の余白に、ふと目が止まった。以前アレクシスに指摘された通行料の修正箇所。あの茶館での出会いの日に書き込んだ数字だ。


フィオナはペンを置き、窓の外の冬の星空を見上げた。


好きなのだと思う。たぶん。


数字では表せない感情が、帳簿の外側で静かに膨らんでいた。けれどそれを認めてしまったら、冷静な経営判断ができなくなるかもしれない。アレクシスはノルディスの宰相で、自分はレグランドの商人だ。二人の関係は二国間の通商に直結している。私情を持ち込むリスクは、計算するまでもなく大きい。


恋と算盤。どちらを取るかではなく、どう両立させるか。


その答えはまだ出ない。でも、胸の中のこの温かさだけは、嘘ではなかった。

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