20
王都での用事を終え、フィオナがルミエールに戻ったのは冬至を過ぎた頃だった。
商会は留守の間もテオが見事に切り盛りしていた。帳簿は一銅貨の狂いもなく、保存食の出荷も滞りなく続いている。マティアスが感心を通り越して呆れた顔で言った。
「あの子は将来、わしを超えるぞ」
日常が戻った。しかし嵐の前の静けさのようなものを、フィオナは肌で感じていた。ギルドの検査はまだ結果が出ておらず、ヴァレリアの次の手も見えない。
そんな折、アレクシスが三度目のルミエール訪問をした。通商条約に基づく初回の正式納入の立ち会いが名目だった。実務的にはハインツだけで事足りる仕事だが、アレクシスは自ら出向いてきた。
「閣下、最近やけにルミエールにお越しになりますね」
リュシエンヌが棒読みで言った。アレクシスは咳払いをした。
「初回納入は重要だ。品質を自分の目で確認する必要がある」
「ああ、そうですか。品質の確認ね」
リュシエンヌの口角が上がっている。アレクシスはそれ以上何も言わず、倉庫の検品作業に目を向けた。
その日の夕方から、空模様が怪しくなった。
灰色の雲が低く垂れ込め、風が急速に強まっていく。冬の嵐だった。ルミエール周辺では珍しいことではないが、今回の嵐は規模が違った。
夜になると暴風雨が街を襲った。横殴りの雨が窓を叩き、風が屋根瓦を剥がす音があちこちから響く。
フィオナは商会の倉庫で夜番をしていた。保存食の在庫が大量に保管されている倉庫が浸水すれば、被害は甚大だ。
深夜、恐れていたことが起きた。
倉庫の裏手の排水路が詰まり、水が逆流して土間に流れ込み始めたのだ。
「まずい!」
フィオナは土間に飛び降り、棚の下段に置かれた瓶詰めの木箱を上段に移し始めた。一箱が十本入りで相当な重さがある。リュシエンヌが駆けつけ、マティアスとテオも夜着のまま倉庫に現れた。
「排水路を塞いでいるものを取り除かないと根本的な解決にならない!」
フィオナが叫んだ。しかし暴風雨の中を外に出るのは危険だ。
「俺が行く」
倉庫の入口に、アレクシスが立っていた。宿から走ってきたのか、外套が雨で全身びしょ濡れだ。
「何をしに——」
「嵐の音で目が覚めた。商会が心配で来た。排水路はどこだ」
リュシエンヌが案内し、アレクシスとハインツが暴風雨の中に飛び出していった。フィオナたちは倉庫の中で木箱の移動を続ける。水は足首まで来ていた。
泥水の中を走り回りながら、フィオナは瓶詰めを一箱ずつ棚の上に押し上げた。腕が震える。腰が痛い。前世の体は三十二歳のオフィスワーカーだったが、この体は十九歳の公爵令嬢だ。体力は前世より勝るはずだが、それでも限界が近い。
「フィオナさん、こっちの棚、もう一段上に上げないと!」
テオが叫ぶ。フィオナは水を蹴立てて走った。
やがて、倉庫の外から声が聞こえた。
「排水路を塞いでいた倒木を取り除いた! 水が引き始めるはずだ!」
アレクシスの声だった。数分後、土間の水位が下がり始めた。膝まで来ていた水が足首に、やがて数センチに。
全員が泥だらけで、息を切らしていた。
フィオナは棚に手をついて呼吸を整えた。指先が冷たく、視界がぼやける。安堵が一気に押し寄せ、膝の力が抜けた。
倒れかけた体を、誰かが支えた。
アレクシスだった。泥と雨水にまみれた外套のまま、フィオナの肩を片手で支えている。もう片方の手は、フィオナの腕を掴んでいた。
「大丈夫か」
「ええ……少し、力が入らなくて」
フィオナは笑おうとしたが、唇がうまく動かなかった。疲労と安堵と、それからもう一つ、名前のつけられない感情が胸の中で渦を巻いている。
アレクシスの碧い瞳が間近にあった。泥が跳ねた頬。乱れた銀髪。宰相の威厳など欠片もない姿なのに、この人はこんなにも——。
「フィオナ」
アレクシスの声が低くなった。
「あなたが倒れたら、私は困る」
「取引先として?」
その問いは、半分は本気で、半分は逃げ道だった。
アレクシスはしばらく黙った。雨音が倉庫の屋根を叩いている。周囲ではリュシエンヌたちが後片付けを始めていたが、二人の周りだけ時間が止まったようだった。
「取引先として、ではなく」
静かな声だった。ほとんど囁きに近い。
フィオナの心臓が大きく跳ねた。
アレクシスはそれだけ言うと、フィオナの体が安定したのを確かめてから手を離した。何事もなかったように外套の泥を払い、ハインツに指示を出し始める。
フィオナは壁に背中を預け、自分の胸に手を当てた。心臓が壊れるのではないかと思うほど速く打っている。
取引先として、ではなく。
その五文字が、嵐の夜の倉庫に、静かに残響していた。




