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通商条約の調印式は、王宮の会議室で厳かに執り行われた。
レグランド王国からは国王フリードリヒ三世と外務大臣、ノルディス公国からはアレクシスと外交官。そしてヴァランティーヌ商会の代表としてフィオナが署名した。
条約の内容は、保存食の通商に関する二国間の枠組みを定めたもので、ヴァランティーヌ商会を公式な仲介者として位置づけている。国王は渋い顔だったが、ノルディスとの関係強化は王国にとっても利益であり、反対する理由がなかった。
調印式の後、ルシアンは王宮の私室に引きこもった。
窓際の椅子に深く腰掛け、杯を傾ける。今日で三杯目の葡萄酒だった。
フィオナの姿が目に焼きついて離れない。調印式で国王の前に進み出たとき、彼女は堂々としていた。背筋を伸ばし、声は明瞭で、国王に臆する様子は微塵もなかった。隣に立つアレクシスと並ぶと、まるで対等な国家の代表同士のように見えた。
あの女が、かつて自分の隣で黙って微笑んでいただけの女と同一人物だとは、にわかには信じられなかった。
五ヶ月前のことを思い返す。
婚約を破棄したとき、フィオナは泣くと思った。怒るか、すがるか、少なくとも動揺するだろうと。それがルシアンの筋書きだった。自分が悪者になっても、ヴァレリアという真の伴侶を選んだのだと——そういう物語にするはずだった。
ところがフィオナは微笑んで受け入れた。あの微笑みの意味を、ルシアンはずっと理解できずにいた。あれは諦めだったのか。それとも、もっと別の何かだったのか。
「殿下」
扉を開けてヴァレリアが入ってきた。甘い香水の匂いが部屋に広がる。
「またお酒ですの? お体に悪いですわ」
「少し考え事をしていた」
「フィオナ様のことですわね」
ルシアンは答えなかった。ヴァレリアが隣に座り、彼の腕に手を添える。
「殿下はお優しいから、元婚約者のことが気になるのでしょう。でもあの方はもう殿下とは無関係ですわ。今は通商条約で注目されていますけれど、所詮は商人。殿下の格とは——」
「ヴァレリア」
ルシアンの声が硬くなった。
「あいつが商人だとしても、他国の宰相と対等に渡り合っている。それは認めなければならない」
ヴァレリアの表情がわずかに凍った。ルシアンがフィオナを評価する言葉を口にしたのは初めてだった。
「……殿下は、あの方を見直されたのですか」
「見直すも何も、事実だろう。あれだけの事業を半年足らずで築いた。俺には——」
ルシアンは言葉を切った。俺にはできない、と言いかけた自分に気づいたからだ。
ヴァレリアは微笑みを取り繕ったが、その目の奥に危険な光が灯った。ルシアンの心がフィオナに揺れることは、ヴァレリアの計画にとって最大の脅威だ。
その夜、ルシアンは一人で王宮の回廊を歩いていた。
葡萄酒の酔いが醒め始め、頭が冴えてきている。月明かりが回廊の窓から差し込み、大理石の床に青白い模様を描いていた。
フィオナを手放したことを後悔しているのだろうか。
ルシアンは自問した。答えは——よく分からなかった。
フィオナに恋をしていたことは一度もない。退屈な相手だと思っていた。しかし今になって気づくことがある。あの退屈さの正体は、フィオナの本質ではなく、ルシアン自身が彼女を見ようとしなかった結果だったのかもしれない。
目の前にいたのに、何も見えていなかった。
だが、今更それを認めたところで何になる。戻ってきてくれと言えば戻ってくるのか。否、戻ってこないだろう。あの女はもう、自分の足で立っている。ルシアンの隣に戻る理由など、一つもない。
では、何が欲しいのか。
フィオナへの愛情か。違う。それは最初からなかった。
フィオナの才能がもたらす利益か。近い。しかしそれだけでもない。
ルシアンが本当に感じているのは、自分が何も持っていないという虚しさだった。王子という肩書き。ヴァレリアという美しい婚約者。だがそのどちらも、自分の力で手に入れたものではない。血筋が与えてくれた地位と、向こうから寄ってきた女。
フィオナは違った。すべてを自分の手で掴み取った。あの商会も、仲間も、ノルディスとの条約も。
その差を突きつけられることが、ルシアンにはたまらなく辛かった。
回廊の突き当たりで足を止め、窓から夜空を見上げた。月が冷たく輝いている。
「畜生」
誰にも聞こえない声で吐き捨て、ルシアンは私室に戻った。机の上に置かれたヴァレリアからの手紙——明日の衣装合わせの約束——を一瞥し、くしゃりと握りつぶした。
すぐに手を開き、丁寧に紙を伸ばし直す。ヴァレリアとの約束を反故にする度胸は、ルシアンにはなかった。
優柔不断。それがこの男の本質であり、そしてすべての始まりだった。




