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通商条約の調印に先立ち、ノルディス公国使節団の歓迎行事として冬季舞踏会が催された。レグランド王国の外交儀礼に従った形式的なものだが、フィオナにとっては五ヶ月ぶりの王都の社交界だった。
公爵邸の客間で、フィオナは鏡の前に立った。
選んだのは深い緋色のドレスだった。かつて着ていた淡い藤色の控えめな装いではない。胸元から裾にかけて金糸の刺繍が流れ、腰には細いベルトを巻いて体の線を際立たせている。蜂蜜色の髪は半分だけ結い上げ、残りを肩に流した。
「姉上、お綺麗です」
ギルベルトが客間の扉から顔を覗かせた。五ヶ月の間に背が伸びた弟は、もう少年というよりは青年に近い。
「ありがとう。あなたも立派になったわね」
「それより姉上、一つ報告を。ヴァレリア嬢がこの舞踏会に合わせて何か仕掛けてくる気配があります。今朝、侍女がモンフォール家の使用人と密談しているのを見ました」
「具体的には?」
「まだ分かりません。ただ、フィオナ姉上の名前が出ていたのは確かです」
フィオナは頷いた。何を仕掛けてくるにせよ、覚悟はできている。
「ありがとう。気をつけるわ」
王宮の大広間は、五ヶ月前と変わらぬ華やかさだった。千本の蝋燭、弦楽四重奏、色とりどりのドレスに身を包んだ貴族たち。
だが、フィオナが広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ざわめきが波のように広がっていく。婚約破棄された公爵令嬢が、五ヶ月ぶりに社交界に姿を現した。しかも成功した実業家として、ノルディス公国の通商条約の当事者として。
視線が集まる。好奇、嫉妬、驚嘆——様々な感情を含んだ視線を、フィオナは真っ直ぐ受け止めた。もう怯える理由はない。
「フィオナ」
低い声とともに、アレクシスが歩み寄ってきた。ノルディス公国の正装——黒地に銀の飾緒が走る軍礼服を着ている。銀髪が蝋燭の光を受けて輝き、広間の注目をさらに集めた。
「エスコートを引き受けてもいいだろうか」
「閣下がそれでよろしければ」
「アレクシスだ、と言ったはずだが」
「公の場ですので」
「では公の場が終わったら名前で呼んでくれ」
アレクシスが腕を差し出し、フィオナがそれに手を添えた。二人が並んで広間を歩く姿に、囁き声がいっそう大きくなった。
広間の反対側で、ルシアンは杯を握りしめていた。
フィオナが変わっていた。あの控えめで退屈な公爵令嬢が、今日は全く別の人間のように見える。緋色のドレスに身を包み、堂々と広間を歩く姿には、かつてなかった自信と輝きがある。
そして何より、隣にいるのがノルディスの宰相だということ。
「殿下、お顔が怖いですわ」
ヴァレリアが囁いた。翡翠色の瞳がフィオナとアレクシスを追っている。その目には、友好的とは程遠い光が宿っていた。
「あの女、見せつけるようにあの男を連れてきて。元婚約者の殿下への当てつけに決まっていますわ」
「当てつけ……?」
「ええ。殿下が婚約を解消なさったことへの恨みがまだあるのでしょう。ノルディスの宰相を利用して、殿下の目の前で見返そうとしているのですわ」
ルシアンの顎が引き締まった。ヴァレリアの解釈は的外れだったが、ルシアンの自尊心にはよく効いた。フィオナが自分を見返すために行動しているという前提は、裏を返せば自分がまだフィオナの世界の中心にいるという幻想を支えてくれるからだ。
フィオナはアレクシスとともに広間を一周し、何人かの貴族に挨拶を交わした。かつての「友人」たちの態度は百八十度変わっていた。
「フィオナ様、お久しぶりですわ。お元気そうで何より」
「商会が大成功だとか。さすがですわね」
「今度お茶でもいかがかしら」
掌を返す速さに呆れるが、フィオナは笑顔で応じた。社交界とはそういう場所だ。利用価値のある人間にだけ笑顔を向ける。それが分かっているから、今のフィオナは傷つかない。
「随分と人気者だな」
アレクシスが小声で言った。
「五ヶ月前は誰も見送りに来なかったのに。現金な人たちでしょう」
「どの国の社交界も同じだ。ノルディスも変わらない」
「あなたも?」
「私は社交界には出ない。数字の方が信用できる」
フィオナは思わず笑った。同じことを考えていた。
舞踏会の終盤、フィオナは一人でバルコニーに出た。あの夜と同じバルコニー。ルシアンに「明日、大事な話がある」と告げられた場所。
五ヶ月前の自分を思い出す。完璧な微笑みの裏で不安を押し殺していたあの夜。今は違う。不安がないわけではないが、それを支える足場がある。
背後で足音がした。振り返ると、予想外の人物が立っていた。
ルシアンだった。
「久しぶりだな、フィオナ」
「ルシアン殿下。ご無沙汰しております」
ルシアンは杯を片手に、フィオナの隣に並んだ。酒が入っているのか、頬が赤い。
「商売が上手くいっているそうだな」
「おかげさまで」
「ノルディスの宰相とは、どういう関係だ」
フィオナはルシアンの横顔を見た。その問いに嫉妬が含まれていないことを、フィオナは見抜いていた。これは恋情ではない。所有欲だ。自分が手放したものが他の誰かに渡ることへの、漠然とした不快感。
「通商上のパートナーです。それ以上でも以下でもありません」
「そうか」
ルシアンはそれ以上何も言わず、杯を呷って広間に戻っていった。その背中を見送りながら、フィオナは静かに息を吐いた。
何も感じなかった。怒りも、悲しみも、未練も。ただ、この人はまだ何も変わっていないのだな、という寂しさだけが、冬の夜風のように胸を掠めて消えた。




