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フィオナの手紙がノルディス公国に届いたのは、発送から四日後のことだった。
アレクシスは宰相府の執務室でその手紙を読んだ。簡潔な文面に、フィオナらしい理性的な筆致。しかし行間からは、押し殺した緊張が滲んでいた。ギルドの不当な検査、背後にあるモンフォール侯爵家の影、王家の名を利用した圧力。
手紙を読み終えたアレクシスは、しばらく沈黙した。窓の外にはノルディスの雪景色が広がっている。白一色の世界。この国を支えるために走り続けてきた十年間、私情で判断を曇らせたことは一度もなかった。
だが今、胸の奥で何かが軋んでいる。
「ハインツ」
護衛官を呼んだ。
「はい、閣下」
「レグランド王国への外交文書を起草する。至急だ」
「内容は」
「ヴァランティーヌ商会はノルディス公国の公式な通商相手であり、同商会への不当な妨害行為は我が国との通商協定に対する侵害とみなす——という趣旨の通告だ」
ハインツの眉がわずかに上がった。この護衛官は武人であると同時に、アレクシスの数少ない理解者でもある。
「通告だけでは牽制にしかなりません。具体的な措置は」
「もう一段ある。レグランド王国との正式な通商条約の締結を提案する。これまでの協定はあくまで商会との民間契約だったが、国家間の条約に格上げすれば、フィオナの商会は外交的な保護の傘の下に入る」
「……閣下、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
「これは国益に基づく判断ですか。それとも——」
「国益だ」
アレクシスは即答した。即答しすぎたことに自分で気づき、わずかに目を逸らした。
「ヴァランティーヌ商会の保存食技術は、我が国の食料安全保障に直結する。同商会が潰されれば、我が国は代替の供給元を探さなければならず、時間と費用の損失は甚大だ。保護する十分な理由がある」
すべて事実だった。事実だが、それがすべてではないことを、アレクシスは自覚していた。
ハインツは何も言わず、一礼して退室した。その背中が語っていた——分かっております、閣下。
フィオナのもとに外交文書が届いたのは、手紙を出してから十日後のことだった。
ノルディス公国の国璽が押された正式な文書。内容を読んだフィオナは、思わず椅子の背にもたれた。
通商条約の提案。それは単なる妨害への対策を超えた、大きな一手だった。国家間条約が成立すれば、フィオナの商会は一介の民間企業から、二国間の外交関係の要に位置づけられる。ギルドや侯爵家どころか、王家さえ簡単には手を出せなくなる。
しかし同時に、それはフィオナの商会がノルディスの政治に深く組み込まれることを意味する。独立した経営者でありたいという矜持と、現実的な保護の必要性が、天秤の上で揺れた。
文書の末尾に、公式の文面とは別に短い一文が添えられていた。アレクシスの手書きだった。
『あなたの商会を潰されることは、我が国の国益に反する。——それだけが理由ではないが、今はそういうことにしておいてほしい』
フィオナは何度かその一文を読み返し、文書を閉じた。頬が熱かった。
「リュシエンヌ」
「何だ」
「王都に行く準備をして。通商条約の調印式は、王都で行う必要がある」
「王都か。あんたを追い出した場所に乗り込むわけだ」
リュシエンヌが不敵に笑った。
「面白くなってきたな」
数日後、フィオナはマティアスとリュシエンヌを伴い、王都へ向かう馬車に乗った。テオには商会の留守を任せた。十三歳の少年は不安げな顔を一瞬見せたが、すぐに顎を引いて頷いた。
「任せてください。帳簿は一銅貨たりとも狂わせません」
「頼りにしてるわ」
馬車の中で、フィオナは通商条約の草案を読み返していた。アレクシスの提案をそのまま受け入れるつもりはない。こちらからも条件を出し、対等な形で合意に持ち込む。そうでなければ、ノルディスの庇護に頼っただけの弱い立場になってしまう。
窓の外に、冬枯れの街道が続いている。五ヶ月前にこの道を逆方向に走った日のことを思い出す。あのとき馬車には三人しかいなかった。今はルミエールに二十人以上の仲間がいる。守るべきものが増えた。
だからこそ、負けるわけにはいかない。
「フィオナ、顔が怖いぞ」
リュシエンヌが向かいの席から声をかけた。
「考え事をしているだけよ」
「考え事をすると般若みたいな顔になるんだな、あんたは」
「失礼ね」
マティアスが眼鏡の奥で笑った。馬車は冬の街道をひた走り、やがて王都の城壁が地平線に見え始めた。




