7.継承
冬が深まるにつれて、トマスの咳き込みは日に日に激しさを増していきました。冷たい北風が吹きすさぶ中、庭の隅にある小さな管理小屋で横になっていることが多くなり、ヘルガは屋敷の目を盗んでは、何度もトマスのもとを訪れました。
ある日の夕暮れ、ヘルガは懐に隠し持ってきた木椀を差し出しました。
「トマス、内緒で作ってきた温かい豆のスープよ。少しでも食べなくては、本当に死んでしまうわ」
「お嬢様、それはご自分が、お食べなさい……。もうこの老骨の喉には、ほとんど何も通らないのです」
トマスはかすれた声で愛おしそうに微笑むと、スープをほんのわずかだけ申し訳程度に喉に流し込み、残りの入ったお椀をそっとヘルガの方へと押しやりました。
「……情けないことです。私がこのような病さえ得ていなければ、あのフランスから来た女狐どもの首を、刺し違えてでもすべて取って差し上げましたものを」
トマスがかつての戦場帰りの鋭い目をのぞかせ、冗談めかして言いました。ヘルガは優しく首を振りました。
「駄目よ、トマス。そんなことをしたら、お父様の官僚としての地位が危なくなってしまうわ。それに、カミラたちが教えてくれたように、私が忍耐の美徳を続けていれば、きっと神様はいつか応えてくださるわ」
クスクスと小さく笑いながらヘルガは答えました。トマスは寝台の上で小さく息を吐き、話を逸らすように言いました。
「そんなことより、お嬢様。ハトはちゃんと取れていますか。灰と煤を体中にまとって人間の匂いと気配を断ち、全身のばねを使うのです。できていますか」
こんな状態になってまで、自分の生存のことばかりを心配してくれるトマスに、申し訳ない気持ちを抱きつつも、ヘルガは努めて明るく答えました。
「言われた通りに一生懸命やっているわ。でも、すばしっこくてなかなか当たらないのよ」
トマスは痩せ細った、しかし大きくて温かい手をヘルガの頭の上に乗せると、我が子を勇気づけるように言いました。
「お嬢様、石を投げると考えてはなりません。あらかじめそこに置くと考えるのです。ハトが次に逃げる先、次にとまる先を予見し、その空間に石をそっと置いておく。それだけでいいのです」
予見すること。それは何よりも難しく、感覚を掴むまでに膨大な時間を要しましたが、トマスの熱心な指導のもとで、ヘルガの体には少しずつその戦場の知恵が形になって馴染んでいきました。
それから数日後、ハト狩りが見事にうまくいった朝のことでした。ヘルガは仕留めた見事な獲物をトマスに見せて喜ばせようと、意気揚々と庭の管理小屋へと向かいました。
しかし、足を踏み入れた寒々とした小屋は、いつもと違う奇妙な静寂に包まれていました。嫌な予感がヘルガの胸を強く突き動かします。
「トマス……?」
駆け寄った寝台の上で、トマスは粗末な藁のベッドに横たわったまま、驚くほど安らかな顔をして冷たくなっていました。もう二度と、その胸が呼吸で上下することはありませんでした。
その硬くなった手には、ヘルガに向けた短い手紙が、しっかりと握りしめられていました。
『お嬢様、我ら使用人一同は、可能な限りの生きるすべをすべてお嬢様に託しました。忍耐の先に、どうか、チャンスがあれば絶対に逃さないよう。お嬢様の幸せを心より願っています。』
ヘルガは溢れ出そうとする涙をぐっと堪え、トマスの最後の言葉が書かれた手紙を、庭のハシバミの木の下にある小さな祭壇の奥へと大切に隠しました。
翌日、屋敷の新しい使用人たちの手によって、トマスの亡骸が荷馬車で近くの教会へと運ばれていきました。エレオノールたちは一瞥すら与えようとしません。
ヘルガは煤に汚れた襤褸の袖を握りしめ、冷たい冬空の下、遠ざかってゆく馬車の後ろ姿を、ただ一人静かに、そして寂しげに見つめていました。この屋敷でヘルガの味方をしてくれる人は、これで本当に誰もいなくなってしまったのでした。
⭐︎リアリズムポイント⭐︎
貴族宅では、使用人の数が家の権威や家格、体面に密接に関わっていました。
いくらヘルガが家事のほぼ全てを賄うとはいえ、短期間で多くの使用人を解雇すれば、家の没落を噂される原因にもなり醜聞は免れません。
エレオノールは古い使用人を徐々に入れ替える事でこの醜聞を回避しようとしたと考えられます。




