6.トマス
約束の一年が経ち、カミラが涙を流しながら屋敷を去っていきました。さらに二年が経つと、今度は一番の古株だったアンナが年齢による衰えを理由に無慈悲にも暇を出されました。三年、四年と歳月が流れるごとに、かつてヨハンナに仕えていた古くからの使用人たちは一人、また一人とエレオノールによって追い出され、ついに残されたのは元兵士の老庭師、トマスだけになってしまいました。
代わりにエレオノールが呼び寄せた新しい使用人たちは、冷酷な女主人やその実の娘たちにおべっかを使うことだけに腐心し、過酷な雑務には見向きもしません。去っていった者たちがこなしていた膨大な仕事の穴は、すべて成長したヘルガの双肩へと容赦なくのしかかっていました。
ある日の早朝、凍てつくような井戸端で、トマスはヘルガの動作をじっと見つめながら低い声で鋭く指摘しました。
「お嬢様、足の運びはそうではありません。真っ直ぐ立っているように見せかけても、重心はきちんと真下に落とすのです。水で満ちた重い桶を持ち上げる時、重心がわずかでもぶれれば、膝や腰を痛めます。骨のきしみは戦場では即、死を意味するのです」
ヘルガは深く息を吐き、冷たい水を湛えた大きな木桶を両手に持ち直しました。
「わかったわ、トマス。剣の道も舞踏の道も、揺るぎない重心と適切な動作、そして停止の緩急こそが基礎にして秘奥。あなたが教えてくれた戦場の心得、一時たりとも忘れてはいないわ」
水汲みから広大な屋敷の掃除、大量の洗濯に至るまで、ヘルガは全身のばねと重心を限界まで意識して動くようになっていました。その日常的な鍛錬は、彼女の挙動を研ぎ澄まされた美しい刃のように洗練させていきました。
継母の目を盗んで厨房の隅でかじる乾燥豆やハシバミの実、そしてトマスが密かに仕留めてきてくれる野生のハトの肉は、ブドウの葉で包まれたのち炉の炭の残り火、灰の中でじっくりと調理され、過酷な労働環境にあるヘルガの肉体を、見事なまでに強靭でしなやかなものへと作り変えていたのです。
そこへ、豪奢な毛皮を羽織った義姉のパメラが、わざとらしい足取りで通りかかりました。暖炉や竈の残り炭、そして灰と格闘して煤で薄汚れたヘルガを見下ろし、パメラは鼻で笑いました。
「あら、みっともない。サンドリヨン、いつまでそんな浅ましい水汲みなどにかかり切りになっているのかしら。我が家の名を汚す気? 少しは淑女たる者、ダンスの一つでも練習したらどうなの」
襤褸をまといながらも、ヘルガの深い緑の瞳は少しも曇っていませんでした。彼女はパメラに向き直ると、泥を帯びた金の髪を揺らして涼やかに微笑みました。
「お義姉さま、ご機嫌麗しゅう。何も問題ありませんわ。私はお義母さまの高尚な教育方針通り、当家の令嬢として相応しい忍耐と教養を身につけるべく、日々邁進しておりますもの。それに、家庭教師の方がお義姉さまに教えてらした宮廷舞踏のステップなど、給仕の合間に何度か拝見しただけで、すっかり覚えてしまいましたわ」
「なんですって?」
パメラが眉をひそめた瞬間、ヘルガは並々と水が入った重い木桶を両手にぶら下げたまま、信じられないほどの軽やかさで地面を滑るようにステップを踏み始めました。上半身は微動だにせず、水面は波立つことすらありません。完璧な重心移動による、恐るべき肉体の制御でした。
「チッ、まあいいわ……せいぜい当家の令嬢として恥ずかしくない教養を身につけることね!」
不気味なほどの完成度を見せつけられ、気圧されたパメラは忌々しげに足早に去っていきました。その背中を見送ると、ヘルガとトマスは顔を見合わせ、いたずらっぽく微笑み合いました。
しかし、そのささやかな微笑みの時間は、トマスの胸の奥から湧き出た激しい咳き込みによって突如として遮られました。
「トマス! 大丈夫なの!?」
ヘルガは持っていた水桶を地面に放り捨て、すぐさま老人の体を支えました。トマスの顔色は土色に近く、呼吸はひどく荒くなっていました。トマスは強がってにっこりと笑い、ヘルガの手を優しく押し返します。
「大丈夫ですとも、お嬢様。ただの歳のせいでございます。さあ、早く残りの掃除をいたしませんと、またエレオノール様に叱られてしまいます」
使用人は減りましたが、屋敷の部屋数は十を超え、仕事の量は増える一方でした。新しく入った使用人たちの手際はお粗末極まりなく、彼らのやり残した仕事のツケはすべてヘルガに回ってきます。
不十分な点があれば、すかさずエレオノールから、屋敷の差配もできない不適切な娘、として容赦のない叱責が飛んできました。おまけに新しい使用人たちは、義姉たちの真似をしてヘルガをサンドリヨンと呼び、見下しているため、彼女の言うことなど聞きもしませんでした。
「忍耐こそは美徳。頑張っていれば、いずれ神様が素晴らしい道を開いてくださる」
ヘルガはかつてアンナが残してくれた言葉をもう一度胸の中で呟き、再び重い水桶を持ち上げました。その背中は、どんな不条理にも決して折れない強固な意志で満ちていました。
⭐︎リアリズムポイント⭐︎
王都にある貴族のスタンダードな邸宅は全10から15室。現代のように掃除機も洗濯機も無く、朝は井戸から重い水汲みを行い、薪を割り、這うように布で床を磨き、叩きこするように灰汁などで洗濯する。普通に重労働で、最低限の10室だとしても、成人女性の一日消費カロリーの二倍以上、重労働の農夫や長距離行軍兵士と同程度となります。
それを補うのは、調理で余った豚のラードや高タンパクの鳩肉、豆、油脂を含むヘーゼルナッツ。ボディビルダーやアスリートの基本ですね。




