2.アンナ
翌日から、エレオノールによる容赦のない教育が始まりました。それは教育という名を借りた、執拗な嫌がらせに他なりませんでした。
朝の光がまだ低い時間、エレオノールは扇で机を叩き、冷ややかな視線をヘルガに注ぎました。
「ヘルガ、令嬢たる者、高貴な身分にふさわしい教養が必要よ。まずは嗜みとして、繕い物と刺繍をはじめなさい。これくらい、フランスの幼子でもできることですわ」
まだ母親を亡くしたばかりで、心の傷も癒えない十歳の少女に向かって放たれた言葉でした。その冷酷な物言いに、部屋の隅に控えていた中年の使用人、アンナがたまらず一歩前に進み出ました。アンナは祖父の代からこの家に仕える古株で、その大きな体を盾にするようにしてヘルガを庇いました。
「奥様、僭越ながら、まだヘルガお嬢様には早いかと存じます。おいたわしいことに、前奥様を亡くされてからまだ日も浅いというのに、このような細かな作業は体に障ります」
「黙りなさい」
エレオノールの鋭い声が部屋に響きました。彼女は立ち上がり、アンナを蔑むように見下ろしました。
「使用人風情が、このわたくしに意見しようと言うの?身の程をわきまえなさい。これはこの家の新たな女主人たる、わたくしの決定です」
そこまで言うと、エレオノールは何か妙案を思いついたように、唇の端を吊り上げて意地の悪い笑みを浮かべました。
「そうだわ、素晴らしいことを思いつきました。これから裁縫の習熟のため、この屋敷の全ての縫い物をヘルガに任せることにしましょう。そこの使用人、あなたが責任をもって基礎から叩き込みなさい」
アンナは驚き、目を見開いて戸惑いました。屋敷中の全ての縫い物を、たった十歳の少女に丸投げしようというのです。これはもはや教育などではなく、明らかな虐待でした。しかし、ここで反論を重ねれば、女主人の怒りはさらに増し、ヘルガへの当たりがいっそう厳しくなることは目に見えていました。アンナはぐっと奥歯を噛み締め、深く頭を下げました。
「……かしこまりました。さあ、お嬢様、こちらへ。まずは基本的な針の進め方からお教えしますね」
アンナはヘルガの小さな肩を優しく撫で、そのまま部屋を退出しようとしました。しかし、その背中にエレオノールの容赦のない追撃が飛びます。
「それと、クローゼットにあるあの古臭いドレス。前妻の趣味の悪い遺品をいつまでも置いておくなんて不快極まりないわ。ドレスも宝石も、全て商人に売却して、わたくしたちの新しい衣服の資金にしなさい」
アンナの顔が一瞬、悲しみと憤りで歪みました。しかし、それをすぐに取り繕って無表情に戻し、静かに答えました。
「かしこまりました。ただちに手配いたします」
ヘルガが一日中、慣れない針仕事に追われ、すっかり日が暮れた夜のことです。指先は針で突かれて傷だらけになり、慣れない姿勢のせいで腕や肩は凝り固まっていました。痛む腕を自分で一生懸命にもみほぐしていた時、部屋の扉がかすかにノックされました。こっそりと忍び込んできたのはアンナでした。
「お嬢様、起きておいでですか?」
「ええ、アンナ。腕が痛くて、まだ眠れないの」
ベッドの上で身を起こしたヘルガを見て、アンナは今にも泣き出しそうな顔で申し訳なさそうに頭を下げました。
「お守りできず、本当に申し訳ございません。お嬢様が大きくなられた時のためにと、大切に保管していた前奥様の形見のドレスまで、あの女に奪われてしまうなんて……」
ヘルガは悲しみに目を伏せながらも、健気につくり笑いを浮かべて首を振りました。
「大丈夫よ、アンナのせいじゃないわ。それにお母さまの思い出は心の中にあるもの。姿は見えなくても、今でも私のそばにいてくれているわ」
その言葉が、かえってアンナの涙腺を崩壊させました。アンナの目尻から大粒の雫が溢れ落ち、床の木目に小さな染みを作っていきます。アンナは涙を拭うと、ヘルガの耳元に顔を近づけて、囁くような低い声で言いました。
「お嬢様、これは絶対にエレオノール様や新しいお姉様方に知られてはなりませんよ。古着屋が買取の際に、ひどい安値をつけた前奥様の古いコタルディがございました。売るに値しないと撥ねられたそのドレスを、私が密かに庭のハシバミの木の根元にある、小祭壇の奥に隠しておきました。もし将来、何かの折に必要となることがあれば、あれをご活用ください」
「まあ……。わかったわ、ありがとう、アンナ」
母の形見が守られたことを知り、ヘルガはこの日初めて心からの笑顔を見せました。アンナはその愛らしい姿を愛おしそうに見つめ、そっと優しく抱きしめました。
「お嬢様、神様は時として、愛する者に厳しい試練をお与えになります。聖書にもあるように、忍耐こそは最大の美徳でございます。不条理に負けず、今をじっと耐え忍んでいれば、いずれ神様が素晴らしい道を開いてくださいますよ」
アンナが熱を込めて語ったこの言葉は、幼いヘルガの心に深く、重く刻み込まれました。
「忍耐は美徳……。そうなのね、アンナ」
彼女の温もりに包まれているうちに、ヘルガは腕の痛みも忘れ、いつの間にか穏やかな眠りについていました。その夜、ヘルガはとても久しぶりに、お母さまが優しく微笑みかけてくれる温かな夢を見たのでした。
⭐︎リアリズムポイント⭐︎
当時のドレスは、胸や背中のあいたコタルディ。それにプーレーヌというつま先の長い靴を履くのが貴族の嗜みでした。
当時の風習的に、親に従うのは当然の事。更にはキリスト教において忍耐は美徳とされ、シンデレラが反抗や家出をせずに延々と継母に従ったのはこのためです。
また、当時の未婚女性が保護者の庇護を離れて単独で生計を立てることは極めて困難でした。




