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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一章 錯綜(さくそう)
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錯綜2-1-⑧:声を失った少女

「お母さん」と言いたいのに、それが喉からどうしても出てこない。和が声を出せずにいると、母はそのまま静かに話し出した。


「和……お母さんが悪かった。本当にごめんなさい。こんなことになる前に気づくべきだったのに……和に、こんな辛い思いをさせて……でも、もうあの男は家に入れない。絶対に近づけさせないから。だから――忘れるの。あなたには何も起きなかった。全部、なかったことにすればいいの」


(忘れる……?)


どうやって?どうすれば、なかったことにできるというのだろう。あれを――忘れられるはずがない。体の奥に、皮膚の裏に、魂の底にまで焼き付いたおぞましい記憶。深く刻まれた刻印のように、消えない痕。


「本当にごめんなさい。どれだけ謝っても、許してもらえないかもしれない。でも……遅すぎるけど、これからはどんなことをしても、和を守る。約束するから」


母の言葉、その伏し目がちな姿さえも、どこか現実味がなく、芝居じみて見えた。これは夢だ。まだ夢の中にいるだけだ――そんな思いが、頭の中をぐるぐると巡る。


「和……どうしたの?お願い、返事をして」


母が懇願するように、和の肩に手を置く。夢のはずだ。これは現実じゃない。そう言い聞かせながら、和は必死で声を出そうとした。けれど、喉から洩れるのは掠れた呻き声だけだった。


「う……あ……」

「和……お母さん、こんなに謝ってるのに、許してくれないの?」


和は首を横に振った。それでも、母にはそれが非難にしか見えなかったのだろう。和の無言の抗議だと。


「お母さんが悪かったって、こんなに言ってるのに……起きてしまったことは、もう取り返しがつかない。でも、お母さんは心を入れ替えて、これからは和のためだけに生きようと思ってるのよ。……和には、それが伝わらないの?」


和はただ、黙って、何度も首を横に振り続ける。喋りたくないわけではない。けれど――声が出ない。どうしても。


「……やっぱり、和はお母さんを恨んでるのね。お母さんのせいで、あんなことが起きたって思ってるんでしょ……」


なんだろう、母の言葉が、和を責めているように聞こえる。そう思った途端、ますます喉が塞がっていく。


「お母さんだって、あの人がそんな男だなんて思わなかった。和にも、優しいお父さんができればって……それだけだったのに……和のためを思っていたのよ」


母の言葉は、許しを乞うようでいて、どこか自分の正当性を主張するようにも聞こえる。その声が、和の頭の中に不協和音のように響く。


「そんなふうに、和はずっとお母さんを責め続ける気?……お母さんに、どうして欲しいの?ねえ、言って。お母さん、和の言うことなら、何でもするから。お願い……!」


母は嗚咽混じりにそう言って、和の胸に顔を埋めて泣いた。和はただ、呆然としたまま母を見下ろす。どうすればいいのか、分からなかった。和自身、自分の身に起こったことが、まだ信じ切れていないのだ。本当に何もかも夢だったらいいのに、そんな思いばかりが渦巻いている。今は、母のことを考える余裕などない――。


 春休みが過ぎ、中学校の入学式が来ても、和の声は戻らなかった。母は最初、和が意地を張って口をきかないのだと思っていたようだ。


「ねえ、いつまでそうやって黙ってるつもりなの?」


その問いに、和はただ、黙って母の顔を見る。話したくないわけではない。でも、どうしても声が出てこない。


「和がそんなだったら……お母さん、どうしていいかわからないのよ……」


母がどんなに話しかけても、和は口を閉ざしたままだった。なだめたり、励ましたり、時には泣きながらも。一週間ほど経った頃、ようやく母は「もしかして声が出せなくなっているのではないか」という疑念を抱いたようだ。


「和……もしかして喋れないの?」


その問いに頷く。


「そんな……!」


よく考えたら、声が出ないと何か書いて渡せば良かったのに、今の和はそれすら思いつかなかった。頭の中はあの時の光景ばかり浮かんで、そして、その度に息ができなくなる。


 そのまま母は和を病院へ連れていった。検査の結果、身体的には異常は見つからなかった。医師は「精神的な要因ではないか」と述べ、心療内科を紹介した。


「最近、ショックを受けるような出来事はありませんでしたか?」


医師の問いに、母は首を横に振った。


「うちでは……特に……何も……」


声を殺すようにして、母は答えた。まさか、恋人だった男に娘が暴行されたなどと言えるはずがなかった。それに、そんなことが他人に知られたら、傷つくのは和だ。母は、後からそう言っていた。

 その言葉がきっと正しいのだろう、和自身、こんなこと誰にも知られたくない。早く、忘れてしまいたい。けれど――。


医師は「一時的なものだとは思うが、いつ回復するかは分からない」と説明した。


「思春期の女の子は、本人も気づかぬうちにいろんなことを抱えています。小さな出来事が、外から見れば些細でも、本人にとっては深刻で過敏に反応してしまうこともあるでしょう。内的原因が外的現象として現れることも珍しい事ではありません」


医師は、今後も注意深く見守っていく必要があると話し、家庭内ではなるべく普段通りの生活を心がけるよう伝えた。


お読みいただきありがとうございます。

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