錯綜2-1-⑨:沈黙が語る心の叫びと、母の自己欺瞞
母は、あまり詮索されなかったことにどこか安堵し、そっと頷いていた。その母の表情に違和感を覚える。医師の言葉が頭の中で反復する。
(これまで通りの生活……?)
どうやったらそんなことができるのだろう、母の言う通り、何もなかったと思えばいいのか、でもそんなことはできない。
(私は……もう前とは違う……)
そんな思いが頭を支配してるのに、母はなんでこんなホッとした顔をしてるのだ。心因性のものだと診断されたが、原因は、言うまでもない。母も分かっているのに医師には「心当たりはない」と答えた。その姿を見て、「ずるい」と思う反面、どこかでほっともしている自分も確かに存在している。誰にも知られたくない。何があったかなんて。誰にも、絶対に――。
母親は和はわざと黙っているのではなく、声が出せなくなっている――その事実を知って、これは和の母への抗議の意思ではなかったのだと分かり、ほっと胸を撫で下ろしたのだ。
(そりゃそうだわ。私が何かしたわけじゃないもの、悪いのはあの男。あんなことをする男だと知っていたら、家に連れてきたりしなかったんだから)
そんな風に母親は自分に言い聞かせていた。だが、その一方で、娘がこうなってしまった原因が自分に絶対にないとは言い切れないという思いが全然、なかったわけではない。これから先、どう娘と向き合えばいいのか、正直分からなかった。
中学校の教師には、「娘は色々あって現在、声が出ないが、聴覚に問題はない。返答は筆談でお願いしたい」と頼むと、快く引き受けてくれた。「どうして声が出なくなったんですか?」と尋ねられたときは、喉の病気だとか、適当に誤魔化した。担任は若い男性教師で、本当のことなど話せるはずもない。そんなことを言って、妙な目で見られても困る――そんな恐怖が先に立った。
そして和は、あの日から自分のことが汚く思えて仕方がない。
(私は汚れている……)
その言葉が、頭の中で何度も何度も、繰り返し渦巻く。あの日から、母は和に対してどこか遠慮がちで、気まずさを滲ませた態度で接してくる。それが、返って“あれ”が現実だったことを突きつけてくるようで、和の胸に冷たいものが広がる。
母を責めたくない。悪いのは、あの男だ。そう思おうとしても、そもそもあの男を家に置いたのは母なのだ。何度も「出て行ってほしい」と懇願したのに、母は耳を貸さなかった。和の言葉より、あの男を信じていた――そう考えると、怒りに似た感情が湧き上がる。
それを思うと、声が出なくなって良かったとさえ思うことさえある。もし自由に話せたら、母にひどい罵声をぶつけていたか分からない。もしかすると、声を失ったのは、あの出来事だけでなく、母を責めたくないという自分自身の心が、自ら言葉を封じたのではないか――そんな気さえする。
幸い、入学式の頃には、和は以前のように平静を装えるようになっていた。声が出ないという一点を除けば、日常は確かに戻りつつあるようにも見えた。
入学式の日、和は他の女子生徒たちを見て、自分だけが異質なのだと感じた。楽しげに笑い合うあの子たちと、自分は違う。もし“あれ”を誰かに知られたら、きっとみんな和のことを「汚い」と思うに違いない。だから、和は懸命に普通を装う。声は出せなくても、精一杯の笑顔を作り、周囲と接する。家の中でも、できる限り普通に振る舞った。
けれど、母のよそよそしい態度や、取り繕ったような笑みは、あの日の記憶を否応なく呼び起こす。一秒でもいい、あの出来事を忘れていたい。何もなかった事にするのだ、普通にしてればいいのだ。そうやって毎日自分に言い聞かせるも、現実はいつも和に付きまとい、あの出来事が頭の中を占拠して離れなかった。
あの日から遠ざかって、やがて、母がまるで何事もなかったかのように振る舞い始めると、それはそれで腹が立ってくる。
(私がどんな思いをしたか、分かってるの?誰のせいでこうなったと思ってるの?)
心の中で叫びたくなるのに、相変わらず声は出ないままだ。だが、そんな思いは抑えきれず態度ににじみ出てしまう。母は、最初こそ気を遣っていたが、次第に疲弊したのか、和に苛立ちを見せるようになった。
「ねえ、本当はもう喋れるんじゃないの?」
ある日、母は和の顔を覗き込みながら訊いた。
「お母さんと口をききたくないから、喋れないフリをしてるんでしょ?」
和はそんな母を睨みつけてしまうこともあった。
「ほら、そんな顔して。やっぱりお母さんのこと、責めてるんでしょう?お母さんなんて、死んでしまえばいいって思ってるんでしょう?」
ああ、また母のこんな言葉が始まった。と思ったが、それは以前のように言葉だけでは終わらなかった。そう言いながら、母は本当に包丁を持ち出し、自分の胸に突きつける素振りを見せる。和は慌てて包丁を奪い取る。
また時には、和の目の前で手首にカミソリを当て、「ここをこう切ればお母さん、死ねるのよ。和も、それを望んでるんでしょ?」と言って自虐的な笑を浮かべる。こんなことが毎日のように繰り返された。
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