錯綜2-1-⑩:繰り返される言葉と、壊れていく母娘の境界線
「お母さんが死ねばいいんでしょ?」
その言葉の頻度がどんどん増える。煩わしい――そんな風に思ってしまう。それでも和が首を横に振って否定すると、母は安心したように微笑む。母は本気で死ぬつもりなどない。ただ、止めてほしいだけなのだと。和が止めるのを分かっていて繰り返している。それを分かっているのに引き止めなければいけない、そう思うと、今度は和の心に別の感情が芽生え始める。
――だったら、本当に死んでしまえばいいのに。
そんな思いが湧く。もし母が死ねば、あのことを知っている人が和の周囲からいなくなる。そうすれば、どれほど心が軽くなるだろうか……。そんなことさえ思ってしまう自分に、和は思わずぎょっとして首を振る。いけない、こんなことを考えてはいけない。
母は、父が出て行ったあと、ずっと和を支えてくれていた。何があったとしても、母は母なのだ。そんな母の死を願うなど、決して許されることではない。それでも毎日毎日「お母さんが死ねばいいのね」そういう母のあの顔と言葉に心が壊れていくのを感じる。
だが、一学期も終わりが近づいたある日、母は本当に自殺した――。
学校から帰った和が部屋の扉を開けて目にしたのは、部屋の中で首を吊った母の姿だった。その異様な光景に、和はただ立ち尽くした。
「お母さん……?」
それはまるで大きな人形が吊るされているように見えた。実感が湧かないまま、和は呆然と母を見つめる。
(ああ、本当に死んじゃったんだ……)
そう心の中で呟いている自分がいる。現実感がない。まるでドラマの一シーンを見ているようで、そこにぶら下がっているのが母だと認識しているにも拘らず、どこか他人事のように感じる。
足元に転がる椅子を見て、和はまるで異次元に落ち込んでしまったかのような感覚を覚えた。和そこにぺたりと座り、ゆらゆら揺れるそれをただ茫然と見ていた。本当は揺れてなどいなかったかもしれない。でも和にはそう感じられた。どれほどの時間が経ったのか分からない。不意に、頭の中で家の電話の音が鳴り響いた。和は我に返り、無意識のまま受話器を取る。
「もしもし?」
受話器の向こうから聞こえたのは叔母の声だった。
「もしもし、和ちゃん?それとも……姉さん?」
母と叔母は以前は仲が良かったが、母が“あの男”を家に連れ込んだことで喧嘩になり、それ以来疎遠になっていた。ただ、叔母は時折和のことを心配して、母が仕事で不在と思われる時間帯にこうして電話をかけてきていたが、“あの男”が電話に出ると黙って切ってしまっていた。
あの事があってから連絡がなかったので、和が声を出せなくなっている事を叔母は知らない。母は和の声が出なくなったことを叔母に追及されたくなかったのだろう、自分から叔母に電話することも無かった。
「和ちゃん、なのよね?」
和は、思わず返事をしようと口を開いた。
「お……叔母さん……」
(え……?)
自分でも驚いた。、あれほど出なかった声が、嘘のように言葉となって出てきた。
「ああ、和ちゃん……良かった。姉さん、まだ帰ってないわよね? お正月に話して以来だけど、元気にしてた? あの山下って男は、まだそこにいるの?」
「叔母さん……」
和は叔母の声を聞きながら、再び目の前で揺れている母の姿に目を向ける。久しぶりに出した声は、変にしわがれていた。
「叔母さん……お母さんが……死んでる」
「……え?」
叔母は和の言葉の意味をすぐに理解できなかったようで、間を置いてから問い返した。
「今、なんて言ったの?」
「お母さんが……天井からぶら下がってる……」
「……ど、どういうこと?」
「学校から帰ってきたら、お母さんが死んでたの……部屋で、首を吊って……」
「首……ね、姉さんが? ま、まさか、嘘でしょう!」
「嘘じゃない……今も、目の前に……」
そう言いながら和は母の遺体を見つめる。なぜだろう、悲しくない。母のこと、ずっと好きだったはずなのに、なんで涙も出てこないのだろう。むしろ、これは本当に母なのだろうか、そんな疑念さえよぎる。
だらりと垂れ下がった四肢、飛び出しそうな目、口から大きくはみ出た舌――生前の母の面影などどこにもなかった。目の前のそれは、ただの醜い肉の塊にしか見えなかった。
――何もかも、終わった。
どこかからそんな声が聞こえてきた気がした。
(……何が、終わったの?)
和は、実際には聞こえていないその声に、心の中で問い返した。
「今すぐそっちに行くから!」
受話器の向こうの叔母が慌てた様子で電話を切った。
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