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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一章 錯綜(さくそう)

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錯綜2-1-⑦:逃げる男と母の後悔

和は声を張り上げて叫びながら岳に突進するも。岳は殺気を含んだ和の鬼気迫る形相にようやくヤバいと思ったようだが、相手はまだ十二歳の少女。威嚇するように怒鳴り返した。


「てめえみたいなガキが、俺を殺せるわけねぇだろ!いい加減にしろ!だいたい今さら俺を殺したって何も変わりゃしねぇんだよ。お前はもう俺の女になったんだ!」


その言葉に、さらに頭に血が上るのを感じた。まるで全身の血が逆流しているように怒りと憎しみがどんどん湧き上がり、爆発しそうな感覚に囚われる。


「恨むならお前の母親を恨めよ!全てはあの女が俺に色目使ってここに引き入れたせいじゃねぇか!」


岳はじりじりと和から距離を取るように、外の廊下に繋がるドアの方へと後ずさる。そしてドアノブに手をかけようとしたその瞬間、不意に扉が開いた。


「ただいま。なんか今日、調子悪くて早退しちゃった――」


そう言いながら入ってきた母は、目の前に広がる異様な光景に目を見開く。


「……なっ!」


包丁を握りしめ、濡れた髪を振り乱し、血走った目で岳を睨みつけている娘。着ているそのシャツは不自然に裂けており、誰かに引きちぎられたように見える。一方の岳は、半裸状態で、体のあちこちに切り傷を負い、明らかに怯えている。何が起こったか、一目で察しがついた。


 母は唇をわなわなと震わせながら室内を見渡し、奥の部屋へと視線をやる。床に残された鮮血の塊――それは、床に飛び散った点々としたものとは明らかに違って見える。


「あ……あんた、何したの……?」


喉の奥から絞り出すような声で、母は岳を睨みつけた。


「お、俺は……別に、何も……」

「和に、何をしたのッ!」


母は和の傍に駆け寄ると、手にしていた包丁を奪い取るようにして、岳に突きつけた。


「言いなさい!何をしたのよッ!」


母の迫力に気圧されたのか、岳は観念したように口を開いた。


「お、俺は……た、ただ、ちょっと可愛がってやっただけだよ。なに、こいつも喜んでたし……」


母は一瞬、和に視線を向ける。和は放心状態でその場に立ち尽くし、虚ろな目でこちらを見ている。


「そ、そうだよ。こいつの方から誘ってきたんだ。お前と一緒だよ。やっぱ親子だな、血は争えねぇってやつだ。子供のくせに色目使いやがって」

「よくも……!」


母は再び岳の方を向くと、包丁を振り上げた。


「わっ、お、おまえまで何すんだよ!」


岳はなんとか刃先をかわし、這いつくばるようにして扉に向かい、脱ぎ捨ててあったズボンを掴んで外に飛び出した。その瞬間、振り下ろされた包丁が玄関のドアに当たって跳ね返り、床に落ちる。


「この人殺し親子がッ!」


ドアの向こうから岳の怒声と、ドアを蹴る音が響く。母はすぐにその包丁を拾い上げ、ドアを開け放つが、そこに岳の姿はもうなかった。通りの先、ズボンを履きながら転げるように逃げていく岳の背中が遠ざかっていくのが見えた。それを見届けた母は、扉を閉め、和の方へと振り返った。


「和……和……!」


母の手から包丁が滑り落ち、和の傍へよろよろと歩み寄ると、その震える肩を抱きしめた。


「和ぁ、ごめん、ごめんね……。お母さんが……あんな男を家に入れたから……許して……!」


母は嗚咽を漏らしながら和を抱きしめて泣きじゃくる。だが、和はまるで人形のように動かず、無反応のまま、その母の姿をただ見ていた。何もかもが白日夢のようで現実に起こった事とは思えなかった。和を抱きしめて泣く母の姿も、まるで遠くの風景のようだった。散々泣いてから母は、ぐしゃぐしゃになった和の髪を撫でながら、和の顔を覗き込んで言った。


「和……今日のことは忘れるのよ。何もなかった。あなたは何も変わってないの。あんなの、狂った犬に噛まれたようなもの。和は悪くない。絶対に悪くないから。いい?忘れるのよ。わかった……?」


それは、まるで自分に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返した。その手は小刻みに震えていた。和は、必死に頷こうとしたが、全身がまるで氷のように硬直して動かせない。母は呆然としたままの和を着替えさせ、布団に横たえた。和はそっと目を閉じる。そして――このまま、永遠に目が覚めなければいいのに、と願った。


 夕方。味噌汁の香りで目が覚めた。台所で包丁を握る母の背中が目に映る。一瞬、なぜ、こんな時間に寝ていたのだろう?と思った。


「……!」


「お母さん」と呼ぼうとしたが、声が出なかった。もう一度、声を出そうと試みるも喉から漏れたのは、掠れた獣のような声だった。なんで?と思うのと同時に、昼間の出来事が、鮮明に脳裏に蘇った。


「お……おっ……お、おおっ……」


その声に、母が振り返った。


「和……目が、覚めたのね?」


母は申し訳なさそうな顔で和を見つめ、唇を噛んだ。その表情が、昼間の出来事が夢ではなかったことを和に突きつける。口を開こうとするも、声にならない。和がパクパクと口を動かしていると、母は首を傾げながら近づいてきた。


「どうしたの、和?」

「……お……おっ……」


(声が出ない――!)

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