混沌2-2-⑤:揺れる感情―突然の知らせ
「あ、それからな。いつも食事の用意をしてくれているが、それはもうしなくて良い」
父が少し間を置いて言う。
「あ……」
寧々は短く声を漏らす。その瞬間、胸の中に小さな落胆のようなものが広がった。結局、それが言いたかったのではないかと、どこか冷めた考えが頭を過る。食べもしない食事を用意される事は、父にとっては負担でしかなかったのだろう。
「で、でも、別に捨てているわけじゃないよ。ちゃんと次の日のお弁当のおかずにしているから」
寧々は慌てて言葉を重ねる。
「いや、必要なときはそう言うから。その……食べるときは、一緒に食べよう」
父は少し言い直すようにして続ける。
「え、あ、そ、そう」
寧々は戸惑いながら頷く。突き放されたのかと思った直後に、距離を縮めるような言葉を向けられ、どう受け止めれば良いのか分からなくなる。気まずさが拭えない。
「ただ、今も仕事が少し立て込んでいてな。頻繁に、というわけにはいかないかもしれないが……」
父は申し訳なさそうに言う。
「あ、い、良いよ。仕事、大事だもんね」
寧々は慌てて答える。父の言葉に少しほっとしている自分がいる。毎日は、正直きつい、そう思っている自分がいる。
「……すまない」
父は小さく謝った。言葉を返そうとしたその時、不意に電話のベルが鳴り響いた。寧々は反射的に壁の時計を見る。時刻は午後十時半を過ぎている。この時間に家の電話が鳴る事は、殆ど無い。胸の奥が少しざわつく。
父が席を立ち、受話器を取る。
「はい、紫園ですが。え……あ、はい……」
父の声が低くなる。相手の声は聞こえないが、ただならぬ空気だけが伝わってくる。寧々は息を潜めるようにして、その様子を見つめた。仕事の電話だろうか。それとも、別の何かなのか。考えが落ち着かないまま、時間だけが引き延ばされるように感じられる。
やがて、父は静かに受話器を置いた。そして、ゆっくりと寧々の方を振り返る。
「おばあちゃんが……肺炎で、危ないそうだ」
「え?」
言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
「支度をしなさい。直ぐに出かける」
父の声は落ち着いていたが、その奥に焦りが滲んでいる。
「あ、うん」
寧々は立ち上がると、慌てて自室へ向かった。先程まで感じていたぎこちなさも、心の奥に広がっていた不安も、全てが一気に別の緊張へと塗り替えられていくのを感じながら。
(おばあちゃん……)
寧々にとって、祖母は唯一の家族と言っても良い存在だった。このところ認知症の症状が進み、寧々の事すら分からない事が増えていたが、それでも祖母のあの笑顔が好きだった。
その柔らかな表情は、どこか母に似ていたからかもしれない。病院へ向かう車の中で、寧々は父と一言も言葉を交わさなかった。長い間まともに会話をしてこなかったせいで、こういう時に何を話せば良いのか分からない。それに今は、祖母の容体の事で頭が一杯で、他の事に意識を向ける余裕がなかった。
病室に入ると、祖母は焦点の定まらない目で寧々と父を見た。意識はあるようでいて、現実を正しく認識している様子ではない。
「朱音……公洋さん……」
祖母は寧々と母を見間違えているようだった。
「おばあちゃん……!」
寧々が声を掛けると、祖母はゆっくりと手を伸ばす。その手は力を失い、触れれば消えてしまいそうなほど頼りなかった。寧々はその手を両手で包み込むように握る。祖母はその感触を確かめるように指を動かし、やがて父の方へ視線を向けた。
「公洋さん……本当に、本当にありがとう……」
息を吐くような、途切れがちな声だった。
「お義母さん……」
父が小さく頷く。
「朱音……ごめんね……」
その言葉を最後に、祖母の呼吸は次第に浅くなり、そのまま静かに止まった。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
寧々の呼び掛けは、もう届かなかった。
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