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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌2-2-⑤:揺れる感情―突然の知らせ

「あ、それからな。いつも食事の用意をしてくれているが、それはもうしなくて良い」


父が少し間を置いて言う。


「あ……」


寧々は短く声を漏らす。その瞬間、胸の中に小さな落胆のようなものが広がった。結局、それが言いたかったのではないかと、どこか冷めた考えが頭を過る。食べもしない食事を用意される事は、父にとっては負担でしかなかったのだろう。


「で、でも、別に捨てているわけじゃないよ。ちゃんと次の日のお弁当のおかずにしているから」


寧々は慌てて言葉を重ねる。


「いや、必要なときはそう言うから。その……食べるときは、一緒に食べよう」


父は少し言い直すようにして続ける。


「え、あ、そ、そう」


寧々は戸惑いながら頷く。突き放されたのかと思った直後に、距離を縮めるような言葉を向けられ、どう受け止めれば良いのか分からなくなる。気まずさが拭えない。


「ただ、今も仕事が少し立て込んでいてな。頻繁に、というわけにはいかないかもしれないが……」


父は申し訳なさそうに言う。


「あ、い、良いよ。仕事、大事だもんね」


寧々は慌てて答える。父の言葉に少しほっとしている自分がいる。毎日は、正直きつい、そう思っている自分がいる。


「……すまない」


父は小さく謝った。言葉を返そうとしたその時、不意に電話のベルが鳴り響いた。寧々は反射的に壁の時計を見る。時刻は午後十時半を過ぎている。この時間に家の電話が鳴る事は、殆ど無い。胸の奥が少しざわつく。


父が席を立ち、受話器を取る。


「はい、紫園ですが。え……あ、はい……」


父の声が低くなる。相手の声は聞こえないが、ただならぬ空気だけが伝わってくる。寧々は息を潜めるようにして、その様子を見つめた。仕事の電話だろうか。それとも、別の何かなのか。考えが落ち着かないまま、時間だけが引き延ばされるように感じられる。


 やがて、父は静かに受話器を置いた。そして、ゆっくりと寧々の方を振り返る。


「おばあちゃんが……肺炎で、危ないそうだ」

「え?」


言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。


「支度をしなさい。直ぐに出かける」


父の声は落ち着いていたが、その奥に焦りが滲んでいる。


「あ、うん」


寧々は立ち上がると、慌てて自室へ向かった。先程まで感じていたぎこちなさも、心の奥に広がっていた不安も、全てが一気に別の緊張へと塗り替えられていくのを感じながら。


(おばあちゃん……)


 寧々にとって、祖母は唯一の家族と言っても良い存在だった。このところ認知症の症状が進み、寧々の事すら分からない事が増えていたが、それでも祖母のあの笑顔が好きだった。


 その柔らかな表情は、どこか母に似ていたからかもしれない。病院へ向かう車の中で、寧々は父と一言も言葉を交わさなかった。長い間まともに会話をしてこなかったせいで、こういう時に何を話せば良いのか分からない。それに今は、祖母の容体の事で頭が一杯で、他の事に意識を向ける余裕がなかった。


 病室に入ると、祖母は焦点の定まらない目で寧々と父を見た。意識はあるようでいて、現実を正しく認識している様子ではない。


「朱音……公洋さん……」


祖母は寧々と母を見間違えているようだった。


「おばあちゃん……!」


寧々が声を掛けると、祖母はゆっくりと手を伸ばす。その手は力を失い、触れれば消えてしまいそうなほど頼りなかった。寧々はその手を両手で包み込むように握る。祖母はその感触を確かめるように指を動かし、やがて父の方へ視線を向けた。


「公洋さん……本当に、本当にありがとう……」


息を吐くような、途切れがちな声だった。


「お義母さん……」


父が小さく頷く。


「朱音……ごめんね……」


その言葉を最後に、祖母の呼吸は次第に浅くなり、そのまま静かに止まった。


「おばあちゃん、おばあちゃん!」


寧々の呼び掛けは、もう届かなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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