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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌2-2-②:耳に残る「恨み」という言葉

 もし、浩太の話が真実だとしたら。それは、余りにも奇妙な巡り合わせである。浩太の母親を手に掛けた女を、和の父親が殺す。


 そして、その子供同士が、同じ学校で顔を合わせている。偶然と呼ぶには、出来過ぎている。運命と呼ぶには、残酷過ぎる。寧々は無意識に両手を握り締めていた。掌に僅かな痛みが走る。親を殺される痛みは知っている。だが――。


 彼女の心に最も深く残っているのは、事件の構図でも、殺人という事実でもなかった。あの時、浩太が発した、あの一言。


「恨むって、どういう感情だと思う?」


その問いだけが、静かに、しかし確実に、寧々の内側に沈み込んでいた。


 親を殺され、その罪を祖母に着せた相手を恨んでいないなど、到底あり得ない。いや「恨む」なんて生優しい言葉では語れない。その女の死を望んでも、おかしくはない筈だ。なのに浩太は、恨みや憎しみに囚われていないように感じる。


 祖母が逮捕されるという、常識では考えられない出来事が起きた事で、恨みという感情に辿り着く前に、心が別の方向へと引き裂かれてしまったのか。寧々は、自分自身の事へと思考を移す。


 ――自分は、どうだったのか。


母と妹を殺した、あの男。寧々は、あの男を恨んでいたのか。恨んでいないと言えば、嘘になる。だが、それだけではなかった。寧々の中に残り続けているものは、別にあった。あの男が残した、あの言葉。


「おまえは、俺の娘だ」


その一言が、寧々の心を縛り続けていた。もし、あの言葉さえ無ければ。寧々は母と妹を殺した相手を、ただ憎み、ただ恨み、その感情だけで生きてきたかもしれない。父と同じように、疑いも迷いもなく、一直線に。だが現実は違った。寧々の中で最も強く膨らんだのは、恨みではなかった。


 ――知られたくない。


その思いだった。あの男の言葉が真実である保証はない。ただの捨て台詞だった可能性もある。それでも、完全に否定する事が出来ない理由が、寧々の中にはあった。あの男は母と妹を惨殺した。それにも拘らず、寧々だけは殺さなかった。


 その事実が、あの言葉に現実味を与えてしまう。偶然だと言い切るには、あまりにも都合が良過ぎる。寧々は何度も首を振り、その考えを打ち消そうとしてきた。それでも、完全に消す事は出来なかった。いつか、あの男が再び現れるのではないか。


 そして、その言葉を他人の前で口にするのではないか。その恐怖が、寧々の内側に静かに根を張り続けている。日本へ帰る事が決まった時も、真っ先に浮かんだのは期待でも安堵でもなかった。


(もし、出会ってしまったら)


その不安だった。浩太とは全く状況が違う。それでも、親を殺されたという現実よりも、別の何かに心を支配されているという点では、似ているのかもしれない。浩太の場合は、祖母が母親殺しの罪で捕まったという、受け入れ難い現実が全てを覆い尽くしたのだろう。寧々はゆっくりと息を吐く。


(あの男が、あんな事を言わなければ)


そう考えずにはいられない。あの一言が無ければ、寧々と父との関係は、今のような距離にはならなかったのではないか。父が自分を避けているように感じるのは、寧々自身があの言葉に囚われている事も、無関係ではないのかもしれない。もし何も知らなければ、父は単に仕事が忙しいだけなのだと、素直に受け止められたのではないか。だが――。


 仮にあの言葉が無かったとしても。血が繋がっていないという事実は、いつか何処かで知る事になった筈だ。その現実から逃れる事は出来ない。完全に無かった事には、ならない。


「寧々」


部屋の扉を叩く音と共に、父の声が聞こえた。寧々は一瞬、思考を断ち切られる。いつの間に帰宅していたのか、全く気付かなかった。それほどまでに、意識は内側に沈んでいたのだ。


「え、あ……何?」


慌てて立ち上がり、扉を開ける。父がこうして自分の部屋を訪ねてくる事は、殆ど無い。その珍しさに、胸の奥が僅かにざわつく。何かあったのだろうか。そう思いながら顔を上げると、目の前に立つ父の様子が、どこか落ち着かないように見えた。

お読みいただきありがとうございます。

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