混沌2-1-⑨:束の間の穏やかな時間、それぞれが抱える影
「木島君にも言わない?」
和が少しだけ躊躇いながら訊く。
「あ、朝陽?朝陽かあ」
浩太は一瞬考えるように視線を泳がせた。
「もし話しても、朝陽は絶対大丈夫だって保証出来るけどさ。深見さんが言わないで欲しいって言うなら、絶対言わない」
浩太は真面目な顔になり、はっきりと言った。
「約束する」
約束する――その言葉を聞いた瞬間、和の胸が僅かに高鳴った。暗い過去を抱えているのに、こんなにも屈託のない笑みを浮かべる事が出来る。そして、こんなにも真っ直ぐな言葉を口に出来る。和は改めて浩太という人間を見直した。けれど同時に思ってしまう。自分には無理だ、と。背負っている物の次元が違う。そんな風に感じてしまった。
「上條君って案外強いのね」
和がぽつりと呟く。
「案外?」
浩太が苦笑する。
「あ、ごめん」
「いや、良いけどさ」
浩太は肩を竦めた。
「でも、そうでもないよ。これでも荒んでいた時期はあるんだ」
浩太の声は少しだけ静かになった。
「その頃は、誰とも口を利かなかった。学校でも殆ど喋らなかったし」
そして少しだけ笑う。
「でも朝陽がさ、俺を暗闇から引きずり出してくれたんだ」
きっと、それだけではない。和は心の中でそう思った。浩太には支えてくれる家族がいた。家族の愛情に浩太は包まれている。助け合える者が傍にいるというだけで、人は救われる部分がある。でも、和の母は違った。母は和に寄り添ってはくれなかった。あの人は、いつも自分の事しか見ていなかった。そんな思いが胸を占める。
「ねえ、お父さんに会いに行かないの?」
浩太が何気ない口調で言う。
「え?」
和は思わず聞き返した。そんな事は、微塵も考えた事がない。第一、もう父親だなどと思っていない。
「お父さんは会いたいと思っているかも」
「家族を捨てた人よ」
和は即座に言った。
「でも、深見さんの事は絶対忘れていないと思う」
「さあ、どうかな」
和は視線を逸らす。
「もう十年も会っていないし。向こうだって私の顔なんて覚えていないわ」
少しだけ間を置き、苦く笑った。
「私も忘れていたくらいだし」
「そうかなあ」
「そうよ。それに、どっちにしても会うつもりなんてこれっぽっちもない」
和ははっきりと言い切った。
「もう他人とおんなじ」
「そう……」
浩太はまだ何か言いたそうな顔をしていた。しかし結局、その先の言葉は口にしなかった。
「あれ~、何?」
丁度その時、買い出しに行っていた朝陽と寧々が帰って来た。寧々は袋を提げたまま二人の顔を覗き込み、首を傾げる。
「何?何か親密なムード?何話していたの?」
「特に何も話していないわよ」
「そうかなあ」
寧々はいつもふざけている様に見えるが、時折妙に勘の鋭いところがある。軽い調子で笑っていても、人の空気の変化には敏感だ。今も二人の間に流れていた微妙な空気を、何となく感じ取ったのかもしれない。
「まあ、良いか。で、どれ食べる?焼きそばパン一つしかなかったから」
寧々は買って来た袋を開き、テーブルの上にパンを並べながら尋ねる。
「私はどれでも良いわよ。皆の食べない物で」
「え~、張り合いないなあ。どれも選びに選んで買って来たんだよ。ね、朝陽」
「うん」
朝陽は袋を畳みながら素直に頷いた。
「そんな選び抜いたとも思えないけど?」
浩太が並べられたパンを見ながら言う。焼きそばパン、玉子サンド、カツサンド、コロッケパン。どれも購買では定番中の定番だ。確かに特別珍しい物がある訳ではない。
「すっごい悩んだんだよ。分からないかなあ」
寧々は心外だと言わんばかりに頬を膨らませる。
「全然」
浩太は少し笑いながら、揶揄う様な口調で答えた。
「分かった。じゃ、私、焼きそばパン貰うからね」
そう言うと寧々は迷いなく焼きそばパンを掴む。
「あ~、じゃ、俺、こっち」
今度は朝陽がコロッケパンを手に取った。その様子を見て、浩太は思わず苦笑する。残ったのは玉子サンドとカツサンドの二つだ。浩太はその二つを見比べ、それから「どっちにする?」と尋ねる様な顔で和の方を見る。
和は小さく首を振り、掌を軽く向けて「どうぞ」という仕草をした。自分はどちらでも構わない、そんな意思表示だった。それを見ると浩太は頷き、少し迷った末にカツサンドを手に取った。
こんな何気ないやり取りをしている時間の中にいると、和はふと自分が普通の高校生の様な気がしてくる。友達と一緒にパンを分け合い、他愛のない事を言い合う。それだけの事なのに、どこか温かく、穏やかな時間。けれど、心の奥では別の声が静かに囁く。
――お前は違う。
そんな声が、消える事なく残っている。自分の存在を消してしまいたいという思いは、いつも心の奥底に沈んでいる。普段は蓋をしているだけで、完全に消えた訳ではない。こんな風に笑っていても、その感情は決して離れてくれない。
いつか、この思いが消える日は来るのだろうか。和はぼんやりとそんな事を考えながら、テーブルの上の玉子サンドにそっと手を伸ばした。
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