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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌1-3-⑮:感情の見えない子供ー背負わされた過酷な運命

「どういう事?」


鳴海が訪ねると桃香は視線を上げ、静かに答えた。


「要するに、一度でも疑われて逮捕された人間に向けられる世間の目は、想像以上に冷たいということよ」


そして、もう一つの現実を付け加える。


「それに岡野には前科があるわ」


鳴海の表情が固まる。


「今回の逮捕で、会社も解雇されたみたいよ」

「そんな……」


鳴海の口から、かすれた声が漏れる。


「それが現実よ」


桃香の言葉は淡々としていた。しかし、その重さは十分過ぎるほどほど伝わってきた。


「無実なら……会社に戻れるでしょう?」


鳴海はすがるように言う。桃香は小さく首を傾げた。


「さあ……それは私にも分からないわ」


そして、静かに付け加える。


「会社もよると思うし、本来なら戻れないとおかしい。という事になるけど、でも難しい場合が多いのは確かね」

「そうなの?」

「会社って面倒事嫌がるでしょ。今回のことだけじゃなく、前科もあるのだから、『無実だったのか、じゃあ、戻ってきなさい』と、ホイホイ迎える会社の方が少ないと言えるわ」


もし不起訴になり、晴れて無罪が証明されたとしても、彼には帰る場所が残っていない。仕事を失い、家族もいない。岡野の置かれた状況は、文字通り孤独そのものだった。


(あ……)


そこまで考えた瞬間、鳴海の脳裏にある事が浮かぶ。岡野には――もう一人、娘がいる。深見和。岡野の別れた妻が産んだ娘で、現在はその元妻の妹夫婦の養女になっている。しかし血の上では紛れもなく岡野の実の娘だ。彼女もきっと、岡野逮捕のニュースを目にした筈だと鳴海は思う。あの報道を見て、和は一体どんな気持ちになったのだろうか。


 岡野が離婚したのは、確か和が小学校一年の時だった。七歳なら父親の記憶が残っている可能性は十分にある。ニュースを見れば、それが生き別れた父親である事に気付いたとしても不思議ではない。傷害事件を起こして母親と離婚した父親が、今度は殺人事件で逮捕された。そう知った時、和の胸にはどれほど重いものが落ちたのだろう。


 しかも母親は彼女が中学に入って間もなく自殺している。そしてその少し前には、彼女自身の身の上にも耐え難い災いが降り掛かっていた。まだ十七年しか生きていない少女が背負うには、あまりにも過酷過ぎる人生だった。


 そこまで考えた時、鳴海は胸が苦しくなった。もし自分が和と同じ人生を背負わされたなら、果たして耐えられるだろうかと想像してしまう。だが、すぐにその考えを振り払った。自分の想像など、彼女の現実には到底及ばないと分かっているからだ。今この瞬間、和はどんな思いでいるのだろうか。その心の中を思い描こうとしても、鳴海には想像する事さえ出来なかった。


 三芳梗子――その名を思い浮かべた途端、鳴海の脳裏に梗子の顔が浮かび上がる。あの纏わり付くような笑顔。梗子はとびきりの美人という訳ではない。顔立ちは至って平凡で、街中にいればすぐに人混みに紛れてしまいそうな印象の女だった。それでも一度会えば忘れ難いものがある。それは、あの笑顔のせいかもしれない。


 柔らかく笑っている筈なのに、どこか不気味なものが残る。相手の心の奥にじわりと染み込んでくるような、妙に嫌な笑顔だった。毒を含んだ笑顔と言えばいいのだろうか。あの独特の雰囲気は、梗子という女の内面から滲み出ていたものなのかもしれない。


 それは彼女の中にあったサイコパス的な性質が、知らず知らずのうちに形となって表れていたものだったのだろうかと鳴海は思う。人の痛みを理解出来ない人間は、自分自身の痛みにも気付き難いのかもしれない。否、もしかすると彼女は痛みという感覚そのものを知らなかったのではないか。そんな考えさえ浮かんでくる。


 振り返ってみれば、梗子の人生は行く先々で不幸を撒き散らしていたかのようにも見える。まるで嵐が通り過ぎた後のように、彼女の周囲には必ず誰かの傷跡が残っていた。人の幸せに無頓着な人間は、自らの幸せも決して掴む事は出来ないのではないか。そんな思いが、鳴海の胸の奥に静かに広がっていった。

お読みいただきありがとうございます。

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