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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌1-3-⑫:父という存在と、その距離

「だったらなんて思った事ないよ。お父さんかもって、ちょっと思っただけ。それ、全然違うからね」


確かにそうだ。「だったら」という言葉には普通、そこに希望が含まれる。もし父親だったなら、何かが変わるかもしれない。誰かが助けてくれるかもしれない。そんな期待が含まれる言葉だ。しかし依智伽にとって「かも」という言葉はただの可能性に過ぎないのだろう。そこには期待も願いも殆ど含まれていない。ただ、そうかもしれないと思っただけの事なのだ。


 依智伽は岡野に何も期待していなかった。もし彼が父親であったとしても、名乗らずにいたという事実がある以上、そこに何かを求めてはいけないのだと無意識のうちに心に蓋をしていたのだろうか。実際、岡野は依智伽を引き取る事を頑なに拒否していた。そんな岡野の心の内を依智伽は敏感に感じ取っていたのだろう。


 人に期待する事や未来に希望を持つ事は、それが叶わなかった時に大きな絶望に変わる。梗子の元で育った環境が影響しているのか、依智伽はとても勘の鋭い子供だ。子供というものは時に大人以上に周囲の空気を読み取る事がある。特に過酷な環境の中で育った子供は、周囲の空気の変化や人の感情の揺れを無意識のうちに敏感に察知してしまうものなのかもしれない。


「でも、もしお父さんだとしたら、浩太お兄ちゃんと同じだね」


依智伽がふと思い出したように言った。


「同じ?」


鳴海は聞き返す。


「あ、同じじゃないか。おばあちゃんがお母さんを殺すのと、お父さんがお母さんを殺すのってちょっと違うもんね」


人が人を殺すという話題を、まるで日常の出来事のように口にする依智伽の様子に鳴海は胸の奥がざわつくのを感じた。この子にとって「殺す」という言葉は特別なものではなくなってしまっているのかもしれない。その事実が、鳴海には何よりも痛ましく感じられた。依智伽は少し考えるように視線を宙に向けたあと、また口を開く。


「あ、でも実際はそれも違うね。浩太お兄ちゃんのお母さんを殺したのは、きっと私のお母さんだから」


少しだけ声を落としながら続ける。


「多分ね、浩太お兄ちゃんもそう思っていたと思う。だからお母さんと浩太お兄ちゃんのお父さんの結婚に反対したの」


そして依智伽は鳴海の顔を見上げた。


「私が浩太お兄ちゃんのところに行けなかったのも、私がお母さんの子供だからだと思う。だって自分の母親を殺した女の子供と家族になんてなれないもんね」


依智伽はそこで一度言葉を切る。鳴海の反応を確かめるように、じっと目を向けた。


「ね、先生もそう思うでしょう?」


鳴海はすぐには答えられなかった。浩太が梗子に疑いを持っていたという話は、浩太と実際に会って話をした桃香から聞いている。ただ、それは浩太が最初から梗子を疑っていたというより、自分の祖母の言葉を信じた結果として梗子に疑いの目を向けるようになった、という事だった。


 それにしても今日の依智伽はやけに饒舌だ。普段の彼女は必要以上に多くを語る子ではない。もしかするとこれは不安の表れなのかも知れないと鳴海は思った。どれだけ平気な振りをしていても、まだ十一歳の少女だ。父親かも知れない男が母親を殺した罪で逮捕されたのだ。


 平常心でいる方が不自然だろう。こうして鳴海に会いに来たのも、胸の奥に溜まっている不安を少しでも外に出したかったからなのかも知れない。ただ依智伽自身、自分の中にあるその不安に気付いていない可能性もある。子供は自分の感情の正体を言葉に出来ないまま振る舞ってしまうこともある。


「もしも公園のおじさんが本当に犯人だったら?花音ちゃんはどう思うの?」


鳴海がそう問い掛けると、依智伽はゆっくりと口の端を持ち上げた。その表情は笑っているはずなのに、どこか冷たい印象を与える。ニタッと形容するしかないような歪んだ笑みだった。

お読みいただきありがとうございます。

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