混沌1-3-⑩:少女の記憶と、解放という名の危うい感情
「花音ちゃんは、公園のおじさんが本当に花音ちゃんのお母さんを殺したと思う?」
その質問を聞くと、依智伽はすぐには答えなかった。少しだけ視線を落とし、何かを考えるような顔になる。皮肉な事に、その子供らしくない思案の表情はますます梗子に似ているように鳴海には見えた。この子は以前、自分が梗子に似ているという事を自覚していると言っていた。
母親の事は好きではないが、別に嫌いというわけでもない。依智伽はそんな風にも言っていた。鳴海はその言葉の意味を思い出す。
本来、子供は嫌っている人間に似てくる事を嫌がるものだ。特にそれが親である場合、その拒絶はもっと強くなる事が多い。それなのに依智伽は、自分が梗子に似ている事を特に否定しようとはしていなかった。それは何故なのだろう。口ではその存在を否定していても、依智伽の中の何かが梗子という人間の存在を認めているのだろうか。もしそうだとしたら、その感情は一体何なのだろう。
母としての梗子ではなく、人間としての梗子に対する何かが依智伽の中に残っているのかもしれない。或いは、もっと別の理由なのか。鳴海にはまだ分からない。ただ一つ確かなのは、この子の心の奥にはまだ誰にも触れられていない感情が静かに沈んでいるという事だった。
「私の為におじさんがそんな事をしたのなら、正義のヒーローだね。私を助ける為に、お母さんを殺してくれた」
「依智伽ちゃん…!」
鳴海は思わずその名前を口にしていた。今は花音と呼ばなければならないと分かっているのに、咄嗟に出たのは昔の名前だった。胸の奥が小さく痛んだ。依智伽はその様子を見て、くすりと笑った。
「冗談だよ。そうだったら良いなって、ちょっと思っただけ」
「そうだったらって……駄目よ。そんな事は思うだけでもいけない事よ」
鳴海は慌てて言葉を続けた。
「人を殺して、正義のヒーローになんて決してなれないの。どんな理由があっても、それは許されない事なの」
「だって先生、さっき言ったよ。思うだけなら罪じゃないって」
依智伽は首を傾げながら言う。子供らしい無邪気さがある一方で、その瞳の奥には妙に冷酷な光があった。
「それは……」
鳴海は一瞬言葉に詰まった。
「大丈夫だよ」
依智伽はまた、ニッと笑った。その笑顔はどこか大人びていて、鳴海の胸をざわつかせる。
「本当は、おじさんがお母さんを殺したなんて思ってないから」
そう言って、肩を軽くすくめる。
「おじさんにはそんな事出来ないよ。だって、おじさんはとっても優しい人だもん」
依智伽は迷いのない声で言った。
「きっとね、人殺しなんて出来ないよ」
「依智伽……あ、花音ちゃん……」
「どっちでも良いよ」
「え?」
鳴海は思わず聞き返した。依智伽は少し照れたように笑った。
「名前。先生と二人だけの時はね、どっちで呼んでも良いよ」
「……でも、今は花音ちゃんだものね。間違ったりしたら駄目よ」
鳴海は自分に言い聞かせるように言った。依智伽は小さく肩を揺らした。
「正直言うとね、まだ慣れてないの。その名前」
そう言って、視線を少し下に落とす。
「なんだか別の人を呼ばれているみたいに思う事があるし。だって去年まで、ずっと依智伽だったんだもの」
その言葉には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「そう、だよね……」
鳴海は静かに頷いた。名前というものが人の存在そのものに深く結びついている事を、改めて思い知らされる。少しの沈黙のあと、依智伽がふいに顔を上げた。
「ねえ、先生」
「なあに?」
「おじさん、どうして捕まっちゃったの?」
鳴海の胸が一瞬強く打った。
「お母さんを殺したって、警察の人に言ったの?」
「あ……いえ。それは……」
言葉が途切れる。岡野は何も喋っていない。それは桃香から聞いていた。だが、それは捜査に関わる話だ。たとえ相手が被害者の娘であっても、簡単に口にしていい内容ではない。桃香は鳴海を信頼して、その事を話してくれたのだ。その信頼を裏切る事は出来ない。鳴海は慎重に言葉を選んだ。
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