混沌1-3-⑦:依智伽の本心と、捕まった犯人
鳴海は岡野と直接会って話してみたいという衝動に駆られた。けれど、それが現実的ではない事も理解している。たとえ桃香が梗子の事件を担当していたとしても、それは簡単に出来る事ではない。
刑事ドラマなんかでは、部外者が被疑者と話している場面がよく描かれる。しかし現実では、弁護士でもない無関係の人間が取り調べ中の被疑者と接見する事など不可能に近い。鳴海はそう自分に言い聞かせ、胸の奥に湧いた衝動を静かに押さえ込んだ。
その数日後の事だった。鳴海は依智伽と久し振りに顔を合わせた。向こうから会いに来たのだ。それは鳴海にとって、少し意外な出来事だった。以前会った時、依智伽はもう鳴海とは会いたくない様な事を仄めかしていたからだ。
「先生、こんにちは。久し振り」
依智伽はそう言って、以前と変わらない落ち着いた表情を浮かべた。
「こんにちは。今日はどうしたの。依智伽ちゃん……じゃなくて、今は花音ちゃんだったわね」
鳴海は一瞬言い直し、少しだけ笑った。
「花音ちゃんが自分から私に会いに来てくれるとは思わなかったわ」
「前に、もう声掛けたり探したりしないでって言ったから?」
依智伽はそう言って、鳴海の顔を真っ直ぐに見つめた。
「あ、ええ。そうね」
鳴海は頷く。
「だって先生から声掛けてきたりしたら、きっとお母さんがどうして先生を知っているのって聞いてくるもん」
依智伽は肩を竦めてみせた。
「だから、あの時は本当にそう思っていたんだ」
「じゃあ……どうして?」
鳴海は静かに尋ねた。
「うーん……」
依智伽は少しだけ考えるように視線を落とした。
「ちょっと先生とお話がしたくなったの」
「それはもしかして……」
鳴海はそこまで言い掛けて言葉を止めた。岡野が三芳梗子殺害の容疑で逮捕されたからではないか。その言葉が喉元まで出掛かっていた。しかし、それを口にする事を鳴海は躊躇った。そんな鳴海の胸中を見透かした様に、依智伽は口を開いた。
「そうだよ」
依智伽はあっさりと言った。
「先生の思った通り。お母さんを殺した犯人が捕まったから」
依智伽は少し笑った。
「そんな話出来る人、先生しかいないなあって思って」
その口調は、まるで世間話でもするかの様に軽かった。
「今のお母さん、私が何で施設にいたのか、知らないような気がして。お父さんは聞いてると思うけど、多分、お母さんには話してない。お父さんってね、お母さんに対してすっごい過保護なの」
依智伽は淡々と続ける。
「もし本当の事を知っていたとしても……」
少し間を置き、言葉を選ぶように続けた。
「今のお母さんとは、そんな話出来ないでしょ。私を生んだ人の話なんて」
「そう……ね」
鳴海は小さく頷く。
「それに、実の母親が殺された可哀想な子、だって思うかも知れないし」
「可哀想な子だと思われるのは嫌なの?」
鳴海は慎重に聞いた。
「うん」
依智伽は迷いなく頷いた。
「だって私、別に可哀想なんかじゃないから。あのお母さんが生きている時の方がずっと惨めだったもん」
依智伽は静かに言う。
「だからお母さんが殺されたからって、私は全然可哀想じゃない。死んでくれて良かった、って思ってるんだから」
「花音ちゃん…」
「こんなこと言っちゃいけない?あ、でも安心して。先生にしか言わないから」
そう言って笑みを浮かべる依智伽に鳴海は、一瞬背筋が寒くなる。依智伽にとって、それはきっと本心であり、紛れもない真実でもあるのだろう。だが鳴海の胸には、重いものがゆっくりと沈んでいった。胸の奥が締め付けられる様な苦しさが広がっていく。鳴海は何も言えず、ただ依智伽の顔を見つめていた。
「今のお母さんは凄く優しいのでしょう」
鳴海が静かに尋ねると、依智伽はすぐに頷いた。
「うん。私、一度も怒られた事ないよ。いつも笑っているの」
依智伽は少し楽しそうに続けた。
「何かね、御伽噺に出てくるお母さんみたいな感じ。あ、意地悪な継母っていう意味じゃないよ」
慌てて付け加えるように言う。
「分かっているわ」
鳴海は小さく微笑んだ。依智伽は暫く考えるように視線を彷徨わせた。
「でも……やっぱりちょっと変わっているかな」
「変わっているって?」
鳴海が首を傾げる。
「あのね、お母さん。今のお父さんと結婚する前に二回も結婚していたんだって」
「二回?」
鳴海は思わず聞き返した。依智伽の今の母親は、多香子の義理の姉である。現在の夫と再婚である事は鳴海も聞いていた。その前の夫が山下岳である事も知っている。しかし、その前にも結婚歴があったとは鳴海は知らなかった。
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