【55】夜更けの訪問者(8)
続きです。
甲高い断末魔の声だけを残し、銀鏡狐の身体は光の粒になって消えた。
それを見届けるや否や、アルフレッドは短剣から手を放し消し去った。魔力消費はいつも通り激しいが、至近距離に銀鏡狐を捉えた状態だったから祓の短剣を手にする時間を最短にできたのもありなんとか耐えられた。深呼吸して周囲に残る魔素を循環させ少しでも回復しようとした時────
「い゛っっ!」
左肩に走った鋭い痛みに顔を歪めたアルフレッドが肩越しに後ろを見れば、メイベルが物凄い形相で彼の左腕を掴んでいた。そのままぐりんとアルフレッドの身体を振り向かせて黒ローブを掴み、問答無用とばかりに脱がしにかかってくる。メイベルの暴挙にアルフレッドは慌てて黒ローブの襟元を押さえた。
「ちょっ……メル!?」
「服脱いで! 噛まれたところを見せなさい!!」
「は!? っていうかなんであっち向いてないの!? 見ちゃ駄目って言ったじゃん!」
「どのみち記憶を消されるんなら見ても見てなくても変わんないでしょ!?
それよりすぐに傷の手当をしなきゃ!!」
「なっ……!」
まだ何か文句を言おうと口を開けるアルフレッドをメイベルは鬼気迫る表情で睨んで黙らせた。
実を言えばアルフレッドが結界を消した直後くらいから、メイベルは振り返って彼の様子を見ていた。結界が消えた途端、銀鏡狐はアルフレッドの左肩に噛みつき、光になって消える瞬間まで暴れていた。あれでは食い込んだ牙で彼の左肩はさぞ酷い状態になっているだろう。
魔獣による怪我は彼らの持つ毒素の影響で、処置が遅れると通常の怪我より重症化する場合がある。魔獣の被害も少なからず出る山村育ちだからこそ、メイベルはその恐ろしさを知っているのだ。
黒ローブの前合わせを開くと、中の白いシャツに赤い沁みが広がっていた。そのままシャツのボタンもいくつか外して噛まれた左肩を露出させて確認した、のだが。
「嘘っ、もう血が止まってる!?」
アルフレッドの左肩の怪我は出血はもう止まっていたし魔獣による傷特有の毒にやられた形跡もない。牙の痕こそくっきり残ってはいるものの、肌が裂けたりもしていない。銀鏡狐が噛みついたままであれほど暴れていたのに、だ。
「魔法使いの身体って、ひょろひょろしてひ弱そうに見えてわりと頑丈なんだよ」
上半身の片側をひん剝かれた状態のアルフレッドは、苦笑しながら今度こそ深く呼吸をして周囲の魔素を巡らせ可能な限り魔力を回復させる。すると見る間に銀鏡狐の噛み痕周囲の赤味も収まり、傷も盛り上がって塞がっていく。冷や汗を流して青褪めていた顔色も戻りつつあるようだ。
「ほら、体内の魔力が減ってなければ自然治癒するレベルの傷なら血もすぐ止まるし回復も早いんだ。
お母上もそうじゃなかった?」
「そういえば……」
言われてメイベルも思い至る。そういえば、母アシュリーも資料を捲っていて指先を切ってしまった程度なら、ふっと息を吹きかければたちどころに癒えていたっけ、と。
けれどアルフレッドが負った傷は指の薄皮一枚切れた程度の傷とはわけが違う。
「いやいや、だけど今のはちょっとどころの怪我じゃないでしょ!?」
「まーね。あの銀鏡狐はまだ朧の状態からだいぶ実体化が進んでたから牙は刺さったし痛かったけど。逆に言えば、ちょっとでも実体化してくれてたおかげで逃がさずに掴まえていられたわけだし」
アルフレッドはメイベルに寛げられた服を戻し、左肩に手を当てながらぐるぐると腕を回して動きを確認した。少し顔を顰めているからまだ若干痛みは感じるようだ。それでも「まあ大丈夫」と言ってヘラリと笑う魔法使いに、メイベルは安心するやら呆れるやらだ。
「ほんと、魔法使いの身体ってデタラメにできて────」
言葉の途中で、カクンと膝から崩れて倒れそうになったメイベルをアルフレッドが抱き留めた。そのまま上体を支えるようにしながら、二人一緒に浄化されたシャルテヴィーアの上に座り込む。
「魔力切れ……」
「だね」
いつもより数倍多く緑の歌に魔力を乗せたのだ。眩暈の原因に思い至りさもありなんとメイベル自身も思った。魔獣が消えて緊張が解けたのも脱力した一因かもしれない。
「魔力流し過ぎ。って、僕のためだよね……無理させてごめん。でも、助かった。ありがとう」
「うん」
アルフレッドが申し訳なさそうな顔で眉尻を下げたのを見て、メイベルが大丈夫だと笑う。
「そんな心配しなくても、一晩寝たら戻るから。
魔力が自然回復するスピードは母様以上だから、私」
アルフレッドのように魔素を巡らせて魔力を創り出し魔法を行使したり回復したりする魔力循環型の魔法使いと違い、メイベルやアシュリーのような魔力保有型の魔法使いは魔力が自然回復するのが速い者が多い。そのおかげで体内に大量の魔力を保有した状態を維持し続けることができているのだ。
魔力切れによる眩暈を目を瞑って耐えながら、メイベルはふっと以前母に言われたことを思い出した。
「そういや母様が、私がこんなに魔力の回復が早いのはいつか出会う『運命の人』のためだろうって、言ってたなぁ」
支えてくれているアルフレッドの身体が、微かに強張るのを感じた。
「……メルは、運命にはもう出会えたの?」
「んー? どうかなぁ……」
何と答えていいものやらと、メイベルは言葉を濁した。
(まさかその人に、私よりもっと相応しい『運命』がいるなんて、思わなかったもの)
重い瞼をゆっくりと押し上げると、自分を覗き込んでいるアルフレッドの青い瞳が揺れていた。少し眉を寄せた顔がどこか拗ねた子供のようにも見える。
メイベルが思わずふふっと笑うと、アルフレッドは眉間の皺をさらに深くした。
「何笑ってるの? メル」
「べつに。そう言うアルは、もう『運命の人』は見つかってるんでしょ?」
ローゼスとの会話をメイベルに聞かれていたことを思い出し、アルフレッドは口を尖らせた。
「……立ち聞きなんて行儀がよくないんだからね」
「それは、ごめん」
「見つかったって言っても小さい頃のことだし……それに、その可能性があるかもってだけだったし」
「でも、今でも交流は続いてるんでしょ? あ……」
言いながら、メイベルが何かを思いついたように言葉を切った。
「もしかして……私が着てるドレスって、そのご令嬢のものだったりする?」
「っ!?」
焦ったようにも見えるアルフレッドの表情に、メイベルは自分の推測が当たっていたのだと知る。
今メイベルは、朝ケッタを出発するときからずっと借り物のドレス一式を身に着けたままだ。皇王との謁見後もいろんなことが立て続けに起こってしまい、まだ着替えられていなかった。あらためて見てもその色合いは青ベースに黒の差し色が入った、これでもかというくらいの“王弟の婚約者様”仕様だと思う。急遽決まった神域潜入計画のためによくもまあここまでのものを用意できたもんだと感心していたのだ。だがそもそも彼の色を纏うのが当然の令嬢がいて、その方のドレスをメイベルのサイズに合わせただけだというのならある意味納得だ。
しかも、先ほどシャルテヴィーアを切った際にドレスの裾に傷や綻びも出来ているかもしれない。
「なんかそのご令嬢に申し訳な……」
「違うからっ!」
メイベルが謝罪を口にしようとしたら、アルフレッドが食い気味に声を上げた。
「たしかに、メイベルに着てもらってるのはその子のドレスだけどっ、でもこれは僕の色じゃないから!」
「え? でも青に……黒だよ?」
「黒の部分は、もともと金糸だったのを王城の魔術縫製士が徹夜で刺繍を入れ直してくれたんだっ」
「魔術、縫製士……?」
「魔法の糸と針でドレスとかを作るのが専門職の魔法使いだよ。王城の魔術縫製士はデザインから縫製まですべてをこなしてくれる」
「ほぇえ」
さすが魔法使いの国、そんな職業もあるんだとメイベルは感心する。ちなみに、同じ魔法使いの国の中でもド庶民として生まれ育ったメイベルにとっては、服は人の手仕事で一から作るのが常識だ。
「すごいねぇ」と眠そうな目で言うメイベルに、アルフレッドがハッとなって微妙に逸れてしまった会話の焦点を元に戻した。
「それにこのドレスに使われてる青は、僕の瞳の色よりずっと濃い青でしょ!?」
「そう? だっけ??」
「そうだよ!! ほらっ! 僕の瞳、よーく見て!」
「う~ん……」
メイベルは目の前のアルフレッドの瞳を覗き込んだ。星明りしかないのでわかりづらいが、確かにドレスの青よりも明るい色に見えなくもない。
真剣な顔で「違うから」とアルフレッドが念を押す。なんでそんなにムキになるかなと思いつつも、メイベルはひとまず頷いておいた。
アルフレッドはまだどこか不満顔だったが、こつんと額を合わせて一つため息をついた後、メイベルを姫抱きにして立ち上がった。
「わっ、ちょっと、自分で歩けるよ!?」
「いいから」
アルフレッドはメイベルを抱えて小離宮の方に向かって歩き出す。
「重いでしょ?
アルは澱みに当てられたり魔力切れしたりで倒れたばっかだし、怪我も……」
「魔力はメルの浄化のおかげである程度戻ったし、怪我もどうってことない。
それにメルは羽根のように軽いから」
「……なに、その恋愛小説みたいな台詞。まさか魔法書以外でそういうも読むの?」
「本なら何でも読むよ。ちなみに、恋愛小説の類はヴィーゴから借りた」
「え…………」
あの筋肉にそんな趣味が、とでも言いたげな表情になったメイベルにアルフレッドがぷっと噴き出す。
「たぶんヴィーゴ自身の趣味じゃなくて、読めって言って押し付けられたんだと思うよ」
「押し付け……?」
聞き返すメイベルが眠そうに眼を擦った。眩暈が少し落ち着いてきたら次は眠くなる。メイベルが魔力を使いすぎた時はいつもそうだった。
今のアルフレッドは何を言っても下ろしてはくれなさそうだし、正直怠くて眠くて仕方ない。甘んじて運ばれることにしたメイベルが黒ローブの胸元に頭を凭れ掛からせたところで、ぴたりとアルフレッドの足が止まった。
「フェアノスティに帰ったらすぐ、ちゃんと僕の色でドレスを贈るからね」
降ってきた台詞に見上げれば、王弟殿下がその美しく整った顔に非の打ち所がない笑みを浮かべていた。
自分が何を言われたのかを眠りの世界にだいぶ片足を突っ込んだ頭でゆるっと理解したメイベルが小首を傾げる。
「え、ドレスなんか着る機会ないからもらっても……」
「贈るから。」
華やかに笑んだままの顔で有無を言わさない口調で畳みかけられた。
「あ、うん……ありがと?」
なんとなくだが、これは断ってはいかんやつだと察したメイベルは、またもや大人しく頷いておいたのだった。
再びアルフレッドが歩き出す。彼が歩を進めるたび伝わってくる振動と、皮のブーツがシャルテヴィーアを踏む音に誘われるまま、メイベルはすうっと瞼を閉じた。
腕にかかる重みが少し増したことで、アルフレッドはメイベルが眠ったことを感じ取った。安心して全てを自分に委ねてくれているということへの喜びと男として少しも警戒されていないことへの複雑な思いが混じり、アルフレッドの顔に苦笑が浮かぶ。
歩を進めて小離宮に近付けば、庭に面した掃き出し窓の向こう側で心配に眉を寄せた魔法人形と幼馴染、あと無表情なのが逆に怖すぎる叔母の姿が見えた。
待ち構える説教地獄を思い躊躇するが、メイベルは休ませてやらなければいけない。アルフレッドは腹を括って小離宮の施錠魔法を解除した。途端に掃き出し窓を開いて三人がこちらに駆け寄ってくる。
「メイベルっ!!」
「レッド様、お怪我は!?」
「メルは無傷。魔力の使い過ぎで今眠りました。
僕の怪我も大丈夫。彼女の浄化魔法のおかげでかなり魔力の回復もできたし」
心底ほっとした表情のローゼスがアルフレッドに向かって両手を差し出した。
“渡せ”ということだと理解して、アルフレッドの表情が一瞬曇る。だが自分から一歩踏み出して抱えていた少女を家族であるローゼスの元へ返した。メイベルを抱えたローゼスが急ぎ足で小離宮へと戻っていくのを見送った。腕から重みが消え、感じていた体温が薄れて行ってしまうのをどうしても惜しく思ってしまう。アルフレッドは伸ばしてしまいそうになる手をぐっと握って耐えた。
二人の後姿を見つめていたアルフレッドに、サリシャが歩み寄った。
「いくらかは魔力も戻ったようだな」
「叔母上……毎度毎度御心配をおかけし、申し訳ありません」
「まったくだ。だが今回ばかりはメイベル殿を助けるために致し方なかったろう。
そなたもまだまだ休養が必要だ。部屋に戻って休むといい。
小言は明日目が覚めてからゆっくり語るとしよう」
「…………はい」
直前にはシャルテヴィーアの澱みに当たって倒れてしまっていたし、ずいぶん心労をかけた自覚があるアルフレッドは先に小離宮へと戻っていく叔母の背に深々と頭を下げた。
「周囲には今は強い朧の気配はありません」
「……そうだね」
側に控えていたヴィーゴの言葉に頷く。幼い頃から従者兼遊び相手として共にいてくれる青年の濃い青色の瞳にも心配がありありと浮かんでいた。労いと謝罪の気持ちを込め肩を軽く叩いて一緒に小離宮へと戻る。顔を上げて星の瞬く空を見れば、メイベルが頑張ってくれた浄化魔法の名残と、それに戯れるように宙を舞う小妖精の姿が見えた。
実はまだ神域到着一日目。国境の街ケッタでの火炎鷲騒動の翌日だったりします。




