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【連載版】「誰でもいいから貰ってもらえ」と婚約破棄されたので、憧れの騎士様に求婚しました【4話版】  作者: 堀吉 蔵人


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誰でもいいわけがありません

「君との婚約を破棄する。僕が愛しているのはビアンカだ」


 夜会の広間でそう告げられた時、私の手には婚約者のグラスがあった。

 上着に葡萄酒をこぼしたから、袖を確かめる間、持っていてほしいと頼まれたのだ。私はハンカチまで出しかけていた。その私を置いて、アドルフ様は隣の令嬢の肩を抱いた。


「君といると、母親と暮らしているような気分になるんだよ。何でも先回りして、世話を焼いて。少しも心がときめかない」


 近くにいた人たちの会話が止まった。

 私は手の中のグラスを見た。先回りなどしていない。今も、ご自分で持っていてくれとおっしゃった。去年の冬に手袋を繕ったのも、お気に入りだから捨てたくないと頼まれたからだ。

 それを嬉しく思ったことは、確かにある。私に頼んでくださったことも、お渡しする日を待っていたことも。


「私に世話をされるのは、お嫌でしたか」

「そういう、責めるような言い方も嫌なんだ。ビアンカはもっと可愛らしく、僕に甘えてくれる」


 ビアンカ嬢は困ったように目を伏せながら、彼の腕から離れなかった。

 ここで私が泣けば、やはり面倒な女だったと言われるのだろう。黙っていれば、反論できないのだから本当なのだと思われる。どちらにしても、この方は私を悪い婚約者にして終わらせたいのだ。


 母がこちらへ来ようとしていた。私は一度そちらへ頷いてから、アドルフ様へグラスを差し出した。


「分かりました。婚約破棄をお受けします」

「……ずいぶん簡単に言うんだね」

「結婚したくないとおっしゃる方に、結婚してほしいとは頼めません。これからのことは、両親からお話しいたします」


 グラスを受け取った彼は、何かが気に入らなかったらしく、笑い声を上げた。


「強がらなくていい。そう簡単に次が見つかるものか。まあ、誰でもいいから貰ってもらえ。君の方から頼めば、物好きが一人くらいいるだろう」


 胸の奥が、かっと熱くなった。

 三年前、両家で婚約を決めた日に、私は何度も鏡を見た。初めて彼と二人で庭を歩いた時は、手をつないでもよいのか分からなくて、帰るまでずっと迷っていた。

 この方に大切にされたかった。そう願っていた私を、物好きに押しつける荷物のように言った。


「アドルフ様」


 名前を呼んだところで、その肩越しに一人の男性が見えた。

 オルバン侯爵家の次男、ユリウス様だった。王都の騎士団に勤めていらっしゃる、背の高い方だ。いつもは養育院でお会いするから、礼服姿を見るのは初めてだった。


 彼は手にしていた杯を卓へ置き、こちらへ歩き始めていた。

 私の顔を見て、眉を寄せている。あの低い声で、何を言ってくださるのだろう。


 私は息を吸った。

 誰でもいいわけがない。もし、自分でお願いしてもよいのなら。私の方から選んでもよいのなら、近づきたい方は一人だった。


「物好きな方を、探してみます」


 アドルフ様の横を通り過ぎると、彼は慌てて振り返った。

 私はもう、その顔を確かめなかった。


* * *


 ユリウス様とは、半年前に知り合った。

 母が世話役をしている養育院へ、彼も月に一度、子供たちに本を読みに来ていたのだ。


 初めての読み聞かせで、熊の声を出したユリウス様は、幼い男の子を泣かせてしまった。

 剣を佩いた大きな方が、低い声で唸ったのだから、怖かったのだろう。彼はすぐに本を閉じ、その子から少し離れた床へ座った。


「すまない。今の熊は、腹が減っていたんだ。次は、蜂蜜を食べた熊にする」


 そう言って出した声が、あまりにも間の抜けた声だったので、私は本棚のそばで噴き出してしまった。

 泣いていた子も、私を見て笑った。ユリウス様はほっとした顔をして、それから最後まで、奇妙に鼻にかかった熊の声で読み通した。


 後で謝ると、彼は首を振った。


「助かりました。あの時、あなたが笑ってくれなかったら、ずっと怖い男のままだった」


 おかしくて笑っただけなのに、そんなふうに言ってくださった。

 次の月には、布でできた熊の手人形が増えていた。院の職員が用意してくれたもので、彼が腕を入れると、熊は少し窮屈そうに見えた。


 会うたびに、子供たちの名前や好きな本を覚えていることが分かった。小さな子に袖を引かれても、途中で話を切らずに屈んで聞く。私がお茶を運ぶと、ありがとうと言いながら自分の隣の椅子を空けてくださる。

 その椅子で飲むお茶が好きだった。まだ婚約者のいた私は、それ以上のことを考えないようにしていた。


 三度目にお会いした日には、年長の男の子が、自分で読みたいと本を抱えてきた。

 ユリウス様が隣を空けると、その子は胸を張って座った。けれど、皆の前で本を開いてからは、なかなか最初の言葉が出てこなかった。


「さっきは読めたんだよ」


 ようやく出た声は小さかった。向こうで待ちかねた子が、早く、と言いかける。

 私も手を伸ばしかけた。代わって読めば楽になるだろうか。それとも、せっかく読みたいと言ったのに、取り上げられたと思うだろうか。


「最初だけ、三人で読んでみませんか」


 ユリウス様へ尋ねると、彼は私の分の場所も空けてくれた。

 本を真ん中に置き、短い最初の一文を三人で読む。二行目は、男の子の声が先に出た。私たちが黙っても、その子は続け、ページの終わりまで読み切った。


「次も読める」

「では、お願いします。私は熊が出てきたら呼んでください」


 ユリウス様がそう言うと、男の子は得意そうに次のページをめくった。けれど熊が出てくるより早く、彼を指でつつく。


「ここ、何て読むの」


 彼は身を寄せて、小さな声で教えた。子供たちも今度は急かさず、続きを待っていた。

 私は隣で、読み終えたページが戻らないよう押さえていた。初めはその手にも力が入っていたのに、物語が終わる頃には、すっかり気持ちが楽になっていた。


「よい読み聞かせになりましたね」


 皆が立ち上がった後、ユリウス様は閉じた本を撫でた。


「全部読んであげなくても、あんなに嬉しそうな顔をするんですね。私は、どこで手伝えばよいのか迷ってしまって」

「私も迷いました。あなたに声をかけてもらって、やっと隣を空けることを思いついた」


 彼でも迷うのだと知ったら、ますますお話ししやすくなった。

 次に何か困ったことがあれば、この方に相談してみよう。そう思いながら本を棚へ戻す私を、母が入口で待っていた。帰り道、楽しかったのねと言われ、私はすぐに頷いた。何がいちばん楽しかったのかは、まだ母にも話せなかった。


 一か月前、熊の腕の縫い目がほつれた。

 子供たちが庭へ出た間に直そうと、私は職員に裁縫箱を借りた。ユリウス様は向かいの椅子で、裁縫箱の中の絡まった糸をほどいてくれていた。


「私の手が大きすぎるんでしょう。別の人に代わってもらった方がいいのかもしれない」

「皆、ユリウス様の熊が好きなんです。交代したら、きっと残念がります」

「あなたは?」

「私は……」


 針を動かしていた手が止まった。

 彼が聞きたかったのは熊のことだと分かっている。それでも、すぐに顔を上げられなかった。


「好きです。あの、蜂蜜を食べた時の声が」


 勇気を出して見ると、彼は笑っていた。


「では、続けます。あの声は、家で練習しているんです」

「おうちで?」

「兄に見られました。何も言わずに扉を閉められたので、次からは先に鍵をかけようと思っています」


 笑ったら、針目が大きくなってしまった。一針ほどく私に、彼はすまなかったと言いながら、やっぱり笑っていた。

 その顔を見ると、私までいつまでも可笑しかった。


「縫い物がお好きなんですか」

「はい。小さなものが、だんだん形になっていくのが楽しくて。あまり、華やかな趣味ではありませんけれど」

「私は、ほつれたものが元に戻るのを見ているだけで嬉しいです。……いや、前より腕が上がるようになっていませんか」


 完成した熊へ手を入れ、彼は熊の両腕を動かした。

 裁縫箱にあった布を足して、腕の付け根を少し広げておいたのだ。そう説明すると、ユリウス様は、これなら手を振れる、と何度も熊を動かした。


「フィオナ嬢、ありがとうございます。あの子たちが戻ってきたら、最初に見せなくては」


 その日の絵本には、熊を追いかけるおばあさんが出てきた。

 彼が熊を持つならと、私は横でおばあさんの台詞を読んだ。熊が蜂蜜を隠そうとしても腕が上がってしまい、壺が丸見えになる。子供たちにそこだと指摘されるたび、彼は大げさに困ってみせた。


 最後には、私までおばあさんの声で笑ってしまった。

 片付けの時、ユリウス様は熊を棚へ返しながら、また一緒に読んでくださいと言った。私は頷いてから、次の訪問まであと何日あるか考えていた。


 恋をしてはいけないと思うほど、その日が待ち遠しかった。


* * *


 その方が今、私の前にいる。

 夜会の広間で足を止めたユリウス様は、私を見下ろして、まず名前を呼んでくださった。


「フィオナ嬢。大丈夫ですか」

「今から、少し無茶を申し上げます」


 自分の声が震えていた。さっき婚約を破棄された時より、よほど怖かった。

 この方にまで断られたら、今夜はどれほど泣くことになるだろう。それでも、誰かに選ばれるのを待って、また自分の気持ちを後回しにしたくなかった。


「もし、まだお相手が決まっていらっしゃらないのでしたら。私と、結婚していただけませんか」


 ユリウス様が黙った。

 隣で誰かが息を呑んだが、そちらを見る余裕はなかった。私は彼の顔だけを見て、返事を待った。


「……私に?」

「はい。ユリウス様に、お願いしています」


 彼の唇が動き、けれど、すぐには声が出なかった。

 断り方を考えさせてしまっている。そう思って一歩下がりかけると、彼が手を伸ばした。


「待ってください。驚いてしまって。今、何から申し上げればいいのか」


 差し出された手は、私を引っ張らずに、目の前で止まった。

 私はその手に自分の指を重ねた。途端に、彼が深く息を吐く。


「婚約者はいません。ですが、あなたは今、ひどいことを言われたばかりでしょう。私にまで、無理をしていませんか」

「無理はしていません。勇気は、たくさん使っています」


 彼の顔を見たまま、もう一度息をした。

 ここで強がりだと思われたくなかった。どんなに恥ずかしくても、この方には、きちんと話したかった。


「誰でもいいのではありません。養育院でお会いするたびに、もっとお話ししたいと思っていました。一緒に本を読むのが楽しくて、帰る時には、もう次が待ち遠しくて」


 口にすると、逃げ道がなくなった。

 ただ尊敬している方だと、今までは自分に言ってきた。けれど、今夜別の令嬢がこの方に同じことを頼んだら、私はきっと悲しい。


「ユリウス様が好きです。あなたと結婚したいんです」


 彼の手に力がこもった。

 私を見つめていた顔が、ゆっくりと赤くなる。何度も熊の真似をして笑われていた方が、今は困ったように口元を押さえた。


「申し訳ありません。嬉しくて……少し、待ってください」


 待ちます、と言おうとしたら、私の方まで笑ってしまった。

 嫌ではなかった。そのことが分かっただけで、さっきから詰まっていた息がようやく楽になった。


 ユリウス様は手を口元から下ろし、私に向き直った。


「私も、あなたが好きです。結婚してください。ご両親にも、改めて私からお願いさせてほしい」


 今度は私が、すぐには答えられなかった。

 ご両親にも。その先のことまで、考えてくださっている。


「はい。ぜひ……母も、ここにおりますので」


 その言葉を遮るように、背後から声がした。


「おい、フィオナ。何を本気にしているんだ」


 振り向くと、アドルフ様が立っていた。持っていたグラスはビアンカ嬢に預けたらしい。彼女が彼のグラスを持ったまま、少し離れたところから、不愉快そうにこちらを見ている。

 アドルフ様は私を見ていたのに、ユリウス様へ向き直った時には、急に愛想のよい顔になった。


「お気遣いはありがたいのですが、そこまでしていただかなくても。彼女は少し、思い込みが激しいんです」

「気遣いで求婚の返事はしません」


 ユリウス様の声が低くなった。

 熊の声とは違った。それでも私の手を包んでいる指は、優しいままだった。


「私はフィオナ嬢と結婚したいと申し上げました」

「ですが、僕の婚約者が、突然こんな――」

「今、婚約を破棄なさったでしょう」


 私が言うと、アドルフ様の言葉が止まった。

 それから私の手元を見た。ユリウス様の手から指を離すように、目だけで促された。以前なら、気を悪くされたと思って離していただろう。


「君は、本当にそれでいいのか」

「はい。私は、この方にお願いしたかったんです」

「僕に何も相談せずに?」

「あなたとは、もう結婚しません」


 それだけ答えると、周りで囁きが起きた。

 貰ってもらえと言ったのはご自分なのに。誰かの声が、はっきり聞こえた。アドルフ様も聞いたらしく、肩を強張らせた。


「誰でもいいと言ったのは、言葉のあやだ。こんなところで、本当に頼むとは思わないだろう」


 私は頷いた。


「私も、先ほどまで、お願いできるとは思っていませんでした」


 だからといって、お礼を言いたいわけではなかった。

 私を傷つけた言葉は、傷つけた言葉のままだ。けれど、その言葉どおりに惨めな顔で帰るかどうかまで、この人に決められることはない。


「フィオナ、いったんこっちへ。二人で話そう」

「お断りします。今はユリウス様とお話ししたいので」


 彼がもう一度近づこうとした時、叔母が間へ入った。

 今夜の主催者であるヘルト子爵夫人は、私たちの手を見てから、アドルフ様へ静かに言った。


「姪はお返事をしました。ほかの方の求婚のお邪魔をなさらないで」


 自分が邪魔をしている側だと言われ、彼は口を開いたまま叔母を見た。

 母は私の隣まで来ていた。私が頷くと、母も頷き返し、ユリウス様に、あとで少しお時間を、と声をかけた。


 アドルフ様は、今度はビアンカ嬢の方を見た。


「ビアンカ。これは、違うんだ」

「私にグラスを持たせてまで、あの方を引き留めたかったのですか」


 彼女はグラスを近くの卓へ置いた。彼が手を出しても、その腕には戻らなかった。


「私を選んだと皆様の前でおっしゃった直後に、別の方の求婚を止めにいらっしゃるのね」


 アドルフ様は彼女を呼び、それでも私の方へ顔を戻した。

 私はユリウス様を見上げた。待ってくださっていた彼が、つないだ手をほどき、改めて腕を差し出してくれる。


「少し、落ち着けるところへ行きませんか」


 私はその腕を取った。この方のそばにいたかった。もう少しお話しできると思うだけで、胸が弾んだ。

 歩き始めると、ユリウス様は私に合わせて歩幅を小さくしてくれた。広間の扉の前で一度こちらを見て、私が腕を離していないのを確かめるように微笑んだ。


「あとで、もう一度聞いてもいいでしょうか」

「何をですか」

「私を好きだと。今のことを、何度でも思い出したくなりそうなので」


 顔が熱くなった。そばには母も叔母もいる。それでも、誰かに聞かれるのが恥ずかしいからと、この方を待たせたくなかった。


「あとでも申し上げます。今も、好きです」


 ユリウス様の歩みがほんの少し乱れた。私はその腕を抱え直し、彼と一緒に笑って、広間を出た。

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