誰でもいいわけがありません
「君との婚約を破棄する。僕が愛しているのはビアンカだ」
夜会の広間でそう告げられた時、私の手には婚約者のグラスがあった。
上着に葡萄酒をこぼしたから、袖を確かめる間、持っていてほしいと頼まれたのだ。私はハンカチまで出しかけていた。その私を置いて、アドルフ様は隣の令嬢の肩を抱いた。
「君といると、母親と暮らしているような気分になるんだよ。何でも先回りして、世話を焼いて。少しも心がときめかない」
近くにいた人たちの会話が止まった。
私は手の中のグラスを見た。先回りなどしていない。今も、ご自分で持っていてくれとおっしゃった。去年の冬に手袋を繕ったのも、お気に入りだから捨てたくないと頼まれたからだ。
それを嬉しく思ったことは、確かにある。私に頼んでくださったことも、お渡しする日を待っていたことも。
「私に世話をされるのは、お嫌でしたか」
「そういう、責めるような言い方も嫌なんだ。ビアンカはもっと可愛らしく、僕に甘えてくれる」
ビアンカ嬢は困ったように目を伏せながら、彼の腕から離れなかった。
ここで私が泣けば、やはり面倒な女だったと言われるのだろう。黙っていれば、反論できないのだから本当なのだと思われる。どちらにしても、この方は私を悪い婚約者にして終わらせたいのだ。
母がこちらへ来ようとしていた。私は一度そちらへ頷いてから、アドルフ様へグラスを差し出した。
「分かりました。婚約破棄をお受けします」
「……ずいぶん簡単に言うんだね」
「結婚したくないとおっしゃる方に、結婚してほしいとは頼めません。これからのことは、両親からお話しいたします」
グラスを受け取った彼は、何かが気に入らなかったらしく、笑い声を上げた。
「強がらなくていい。そう簡単に次が見つかるものか。まあ、誰でもいいから貰ってもらえ。君の方から頼めば、物好きが一人くらいいるだろう」
胸の奥が、かっと熱くなった。
三年前、両家で婚約を決めた日に、私は何度も鏡を見た。初めて彼と二人で庭を歩いた時は、手をつないでもよいのか分からなくて、帰るまでずっと迷っていた。
この方に大切にされたかった。そう願っていた私を、物好きに押しつける荷物のように言った。
「アドルフ様」
名前を呼んだところで、その肩越しに一人の男性が見えた。
オルバン侯爵家の次男、ユリウス様だった。王都の騎士団に勤めていらっしゃる、背の高い方だ。いつもは養育院でお会いするから、礼服姿を見るのは初めてだった。
彼は手にしていた杯を卓へ置き、こちらへ歩き始めていた。
私の顔を見て、眉を寄せている。あの低い声で、何を言ってくださるのだろう。
私は息を吸った。
誰でもいいわけがない。もし、自分でお願いしてもよいのなら。私の方から選んでもよいのなら、近づきたい方は一人だった。
「物好きな方を、探してみます」
アドルフ様の横を通り過ぎると、彼は慌てて振り返った。
私はもう、その顔を確かめなかった。
* * *
ユリウス様とは、半年前に知り合った。
母が世話役をしている養育院へ、彼も月に一度、子供たちに本を読みに来ていたのだ。
初めての読み聞かせで、熊の声を出したユリウス様は、幼い男の子を泣かせてしまった。
剣を佩いた大きな方が、低い声で唸ったのだから、怖かったのだろう。彼はすぐに本を閉じ、その子から少し離れた床へ座った。
「すまない。今の熊は、腹が減っていたんだ。次は、蜂蜜を食べた熊にする」
そう言って出した声が、あまりにも間の抜けた声だったので、私は本棚のそばで噴き出してしまった。
泣いていた子も、私を見て笑った。ユリウス様はほっとした顔をして、それから最後まで、奇妙に鼻にかかった熊の声で読み通した。
後で謝ると、彼は首を振った。
「助かりました。あの時、あなたが笑ってくれなかったら、ずっと怖い男のままだった」
おかしくて笑っただけなのに、そんなふうに言ってくださった。
次の月には、布でできた熊の手人形が増えていた。院の職員が用意してくれたもので、彼が腕を入れると、熊は少し窮屈そうに見えた。
会うたびに、子供たちの名前や好きな本を覚えていることが分かった。小さな子に袖を引かれても、途中で話を切らずに屈んで聞く。私がお茶を運ぶと、ありがとうと言いながら自分の隣の椅子を空けてくださる。
その椅子で飲むお茶が好きだった。まだ婚約者のいた私は、それ以上のことを考えないようにしていた。
三度目にお会いした日には、年長の男の子が、自分で読みたいと本を抱えてきた。
ユリウス様が隣を空けると、その子は胸を張って座った。けれど、皆の前で本を開いてからは、なかなか最初の言葉が出てこなかった。
「さっきは読めたんだよ」
ようやく出た声は小さかった。向こうで待ちかねた子が、早く、と言いかける。
私も手を伸ばしかけた。代わって読めば楽になるだろうか。それとも、せっかく読みたいと言ったのに、取り上げられたと思うだろうか。
「最初だけ、三人で読んでみませんか」
ユリウス様へ尋ねると、彼は私の分の場所も空けてくれた。
本を真ん中に置き、短い最初の一文を三人で読む。二行目は、男の子の声が先に出た。私たちが黙っても、その子は続け、ページの終わりまで読み切った。
「次も読める」
「では、お願いします。私は熊が出てきたら呼んでください」
ユリウス様がそう言うと、男の子は得意そうに次のページをめくった。けれど熊が出てくるより早く、彼を指でつつく。
「ここ、何て読むの」
彼は身を寄せて、小さな声で教えた。子供たちも今度は急かさず、続きを待っていた。
私は隣で、読み終えたページが戻らないよう押さえていた。初めはその手にも力が入っていたのに、物語が終わる頃には、すっかり気持ちが楽になっていた。
「よい読み聞かせになりましたね」
皆が立ち上がった後、ユリウス様は閉じた本を撫でた。
「全部読んであげなくても、あんなに嬉しそうな顔をするんですね。私は、どこで手伝えばよいのか迷ってしまって」
「私も迷いました。あなたに声をかけてもらって、やっと隣を空けることを思いついた」
彼でも迷うのだと知ったら、ますますお話ししやすくなった。
次に何か困ったことがあれば、この方に相談してみよう。そう思いながら本を棚へ戻す私を、母が入口で待っていた。帰り道、楽しかったのねと言われ、私はすぐに頷いた。何がいちばん楽しかったのかは、まだ母にも話せなかった。
一か月前、熊の腕の縫い目がほつれた。
子供たちが庭へ出た間に直そうと、私は職員に裁縫箱を借りた。ユリウス様は向かいの椅子で、裁縫箱の中の絡まった糸をほどいてくれていた。
「私の手が大きすぎるんでしょう。別の人に代わってもらった方がいいのかもしれない」
「皆、ユリウス様の熊が好きなんです。交代したら、きっと残念がります」
「あなたは?」
「私は……」
針を動かしていた手が止まった。
彼が聞きたかったのは熊のことだと分かっている。それでも、すぐに顔を上げられなかった。
「好きです。あの、蜂蜜を食べた時の声が」
勇気を出して見ると、彼は笑っていた。
「では、続けます。あの声は、家で練習しているんです」
「おうちで?」
「兄に見られました。何も言わずに扉を閉められたので、次からは先に鍵をかけようと思っています」
笑ったら、針目が大きくなってしまった。一針ほどく私に、彼はすまなかったと言いながら、やっぱり笑っていた。
その顔を見ると、私までいつまでも可笑しかった。
「縫い物がお好きなんですか」
「はい。小さなものが、だんだん形になっていくのが楽しくて。あまり、華やかな趣味ではありませんけれど」
「私は、ほつれたものが元に戻るのを見ているだけで嬉しいです。……いや、前より腕が上がるようになっていませんか」
完成した熊へ手を入れ、彼は熊の両腕を動かした。
裁縫箱にあった布を足して、腕の付け根を少し広げておいたのだ。そう説明すると、ユリウス様は、これなら手を振れる、と何度も熊を動かした。
「フィオナ嬢、ありがとうございます。あの子たちが戻ってきたら、最初に見せなくては」
その日の絵本には、熊を追いかけるおばあさんが出てきた。
彼が熊を持つならと、私は横でおばあさんの台詞を読んだ。熊が蜂蜜を隠そうとしても腕が上がってしまい、壺が丸見えになる。子供たちにそこだと指摘されるたび、彼は大げさに困ってみせた。
最後には、私までおばあさんの声で笑ってしまった。
片付けの時、ユリウス様は熊を棚へ返しながら、また一緒に読んでくださいと言った。私は頷いてから、次の訪問まであと何日あるか考えていた。
恋をしてはいけないと思うほど、その日が待ち遠しかった。
* * *
その方が今、私の前にいる。
夜会の広間で足を止めたユリウス様は、私を見下ろして、まず名前を呼んでくださった。
「フィオナ嬢。大丈夫ですか」
「今から、少し無茶を申し上げます」
自分の声が震えていた。さっき婚約を破棄された時より、よほど怖かった。
この方にまで断られたら、今夜はどれほど泣くことになるだろう。それでも、誰かに選ばれるのを待って、また自分の気持ちを後回しにしたくなかった。
「もし、まだお相手が決まっていらっしゃらないのでしたら。私と、結婚していただけませんか」
ユリウス様が黙った。
隣で誰かが息を呑んだが、そちらを見る余裕はなかった。私は彼の顔だけを見て、返事を待った。
「……私に?」
「はい。ユリウス様に、お願いしています」
彼の唇が動き、けれど、すぐには声が出なかった。
断り方を考えさせてしまっている。そう思って一歩下がりかけると、彼が手を伸ばした。
「待ってください。驚いてしまって。今、何から申し上げればいいのか」
差し出された手は、私を引っ張らずに、目の前で止まった。
私はその手に自分の指を重ねた。途端に、彼が深く息を吐く。
「婚約者はいません。ですが、あなたは今、ひどいことを言われたばかりでしょう。私にまで、無理をしていませんか」
「無理はしていません。勇気は、たくさん使っています」
彼の顔を見たまま、もう一度息をした。
ここで強がりだと思われたくなかった。どんなに恥ずかしくても、この方には、きちんと話したかった。
「誰でもいいのではありません。養育院でお会いするたびに、もっとお話ししたいと思っていました。一緒に本を読むのが楽しくて、帰る時には、もう次が待ち遠しくて」
口にすると、逃げ道がなくなった。
ただ尊敬している方だと、今までは自分に言ってきた。けれど、今夜別の令嬢がこの方に同じことを頼んだら、私はきっと悲しい。
「ユリウス様が好きです。あなたと結婚したいんです」
彼の手に力がこもった。
私を見つめていた顔が、ゆっくりと赤くなる。何度も熊の真似をして笑われていた方が、今は困ったように口元を押さえた。
「申し訳ありません。嬉しくて……少し、待ってください」
待ちます、と言おうとしたら、私の方まで笑ってしまった。
嫌ではなかった。そのことが分かっただけで、さっきから詰まっていた息がようやく楽になった。
ユリウス様は手を口元から下ろし、私に向き直った。
「私も、あなたが好きです。結婚してください。ご両親にも、改めて私からお願いさせてほしい」
今度は私が、すぐには答えられなかった。
ご両親にも。その先のことまで、考えてくださっている。
「はい。ぜひ……母も、ここにおりますので」
その言葉を遮るように、背後から声がした。
「おい、フィオナ。何を本気にしているんだ」
振り向くと、アドルフ様が立っていた。持っていたグラスはビアンカ嬢に預けたらしい。彼女が彼のグラスを持ったまま、少し離れたところから、不愉快そうにこちらを見ている。
アドルフ様は私を見ていたのに、ユリウス様へ向き直った時には、急に愛想のよい顔になった。
「お気遣いはありがたいのですが、そこまでしていただかなくても。彼女は少し、思い込みが激しいんです」
「気遣いで求婚の返事はしません」
ユリウス様の声が低くなった。
熊の声とは違った。それでも私の手を包んでいる指は、優しいままだった。
「私はフィオナ嬢と結婚したいと申し上げました」
「ですが、僕の婚約者が、突然こんな――」
「今、婚約を破棄なさったでしょう」
私が言うと、アドルフ様の言葉が止まった。
それから私の手元を見た。ユリウス様の手から指を離すように、目だけで促された。以前なら、気を悪くされたと思って離していただろう。
「君は、本当にそれでいいのか」
「はい。私は、この方にお願いしたかったんです」
「僕に何も相談せずに?」
「あなたとは、もう結婚しません」
それだけ答えると、周りで囁きが起きた。
貰ってもらえと言ったのはご自分なのに。誰かの声が、はっきり聞こえた。アドルフ様も聞いたらしく、肩を強張らせた。
「誰でもいいと言ったのは、言葉のあやだ。こんなところで、本当に頼むとは思わないだろう」
私は頷いた。
「私も、先ほどまで、お願いできるとは思っていませんでした」
だからといって、お礼を言いたいわけではなかった。
私を傷つけた言葉は、傷つけた言葉のままだ。けれど、その言葉どおりに惨めな顔で帰るかどうかまで、この人に決められることはない。
「フィオナ、いったんこっちへ。二人で話そう」
「お断りします。今はユリウス様とお話ししたいので」
彼がもう一度近づこうとした時、叔母が間へ入った。
今夜の主催者であるヘルト子爵夫人は、私たちの手を見てから、アドルフ様へ静かに言った。
「姪はお返事をしました。ほかの方の求婚のお邪魔をなさらないで」
自分が邪魔をしている側だと言われ、彼は口を開いたまま叔母を見た。
母は私の隣まで来ていた。私が頷くと、母も頷き返し、ユリウス様に、あとで少しお時間を、と声をかけた。
アドルフ様は、今度はビアンカ嬢の方を見た。
「ビアンカ。これは、違うんだ」
「私にグラスを持たせてまで、あの方を引き留めたかったのですか」
彼女はグラスを近くの卓へ置いた。彼が手を出しても、その腕には戻らなかった。
「私を選んだと皆様の前でおっしゃった直後に、別の方の求婚を止めにいらっしゃるのね」
アドルフ様は彼女を呼び、それでも私の方へ顔を戻した。
私はユリウス様を見上げた。待ってくださっていた彼が、つないだ手をほどき、改めて腕を差し出してくれる。
「少し、落ち着けるところへ行きませんか」
私はその腕を取った。この方のそばにいたかった。もう少しお話しできると思うだけで、胸が弾んだ。
歩き始めると、ユリウス様は私に合わせて歩幅を小さくしてくれた。広間の扉の前で一度こちらを見て、私が腕を離していないのを確かめるように微笑んだ。
「あとで、もう一度聞いてもいいでしょうか」
「何をですか」
「私を好きだと。今のことを、何度でも思い出したくなりそうなので」
顔が熱くなった。そばには母も叔母もいる。それでも、誰かに聞かれるのが恥ずかしいからと、この方を待たせたくなかった。
「あとでも申し上げます。今も、好きです」
ユリウス様の歩みがほんの少し乱れた。私はその腕を抱え直し、彼と一緒に笑って、広間を出た。




