あなたに選んでもらえて
叔母が案内してくれた小広間には、ほかにも休んでいるご婦人が二人いた。母は扉の近くで叔母と話し、私たちは窓辺の長椅子に腰を下ろした。
音楽は聞こえていたけれど、もう誰かの声に返事を急がなくてもよかった。
「ありがとうございました」
それだけ言うつもりだったのに、膝へ目を落とした途端、涙がこぼれた。
何が悲しいのか、自分でも腹立たしかった。アドルフ様とやり直したいわけではない。ユリウス様がここにいてくださって、とても嬉しい。それなのに、あんなふうに捨てられた三年間を、まだ簡単には片付けられなかった。
「すみません。求婚したばかりなのに、こんな顔で」
「泣くのを我慢するために、私と結婚していただくわけではありませんから」
彼はハンカチを差し出してくれた。
受け取って目元を押さえると、洗いたての布の匂いがした。誰かのこぼした葡萄酒を拭くために出しかけていた自分のハンカチは、まだ手提げの中にあった。
「私、世話を焼きすぎるでしょうか」
口にしてから、しまったと思った。あの方の言葉を、ここまで持ってきてしまった。
けれどユリウス様は、すぐに慰めを並べなかった。
「嫌なことまで引き受けてしまうのなら、心配です。熊を直してくださった時も、本当は面倒だったのに、断れなかったのでしょうか」
「いいえ。あれは、楽しかったんです。腕が上がるようになったと、あんなに喜んでくださって」
「なら、私は嬉しいです。また頼んでもよいのでしょう?」
「はい。もちろんです」
答えたら、少し笑えた。
好きでしていたことまで、全部やめなければ愛されないのだろうか。そんなことを考え始めていたのだと、ようやく気づいた。
「ただ、私の方も、あなたに何かしたい。困った時や、行ってみたい場所がある時は、教えてください。黙って座っているだけの男にはなりたくありません」
私はハンカチを膝へ下ろした。
この方とだったら、頼むことも、してあげることも、どちらも嬉しいのかもしれない。
「では、次のお休みに、お会いしたいです。養育院へ行く日とは別に」
ユリウス様が私を見た。その目が嬉しそうに細くなったので、胸がまた騒がしくなった。
「私も、そのお願いをしようと思っていました」
「本当ですか」
「今日ここへ来たのも、子供たちに呼ばれないところで、一度くらいゆっくり話せたらと思ったからです。あの方がご一緒なら、挨拶だけにするつもりでしたが」
嬉しいことを、真面目な顔でおっしゃる。
私はハンカチを握り直した。もう涙は出ていなかった。
「では、会いに来てくださったんですね」
「はい。まさか、求婚していただけるとは思っていませんでした」
彼が小さく笑い、照れたように顔を背けた。
広間で私の方へ歩いてきてくださった姿を思い出す。あの時私が勇気を出さなければ、いつかこの方は、別の誰かと一緒に読み聞かせへ来たのかもしれない。
そうならなくてよかった。たまらなく嬉しくて、私は彼の袖にそっと触れた。
「明日も、気が変わりませんように」
「それは、私がお願いしたいことです。今夜、眠れるかどうか分かりません」
近づいてきた母に声をかけられるまで、私たちは互いの顔を見て、何度も笑っていた。
* * *
翌朝、父は朝食の後で、私を書斎へ呼んだ。
母も一緒だった。昨夜のことは帰宅してから話していたが、父は机に積んであった書類を脇へ寄せ、私が座るまで待っていた。
「アドルフ君との婚約は解消する。それでいいね」
「はい。あの方とやり直すつもりはありません」
声は思ったより落ち着いていた。昨夜あれほど痛かった言葉を思い出しても、あの広間へ引き戻される気はしなかった。
父は頷き、もう一つ尋ねた。
「ユリウス君のことは、婚約が白紙になったからといって、急いで決める必要はないんだよ。お前が望むなら、時間を置いてもいい」
膝の上で組んでいた手をほどいた。父が心配していることは分かったし、そのために私を呼んでくれたことも嬉しかった。
「お父様。あの方には、今日もお会いしたいです」
昨夜借りたハンカチは、洗ってもらうよう侍女へ預けてある。枕元には何も残っていないのに、目を閉じると、嬉しいと言って顔を赤くしたユリウス様が浮かんだ。
「誰かと婚約していないと恥ずかしいからではありません。お返事をいただいた後も、お話ししたいことがたくさんできたんです」
母が私を見て微笑んだ。父は母の方を見てから、少しだけ声を和らげた。
「分かった。では、今日いらしたら、私にも紹介してくれるね」
午前中の話し合いで、アドルフ様との婚約解消が両家の間で決まった。セイルズ伯爵から謝罪があったと、父が知らせてくれた。
私からアドルフ様に会いに行くことはなかった。三年間のことをすべて悪かったと思いたくはない。けれど、その時間を惜しむために、これからも一緒にいる約束はできなかった。
ユリウス様がいらしたのは、その日の午後だった。
応接間へ入ってこられた時、私は立ち上がるのが早すぎて、母に小さく笑われた。ユリウス様まで嬉しそうな顔をして、それから父へ向き直ると、急に背筋を伸ばした。
「昨日は、あのような場所での申し出になり、失礼いたしました。改めて、フィオナ嬢との結婚をお許しいただきたく参りました」
何度も人前に立っていそうな方なのに、声が硬かった。私を見た時だけ、その硬さが少し緩む。
父は座るよう勧め、ユリウス様のご両親はご存じなのかと尋ねた。
「はい。私からお話しし、お二人へ正式にご挨拶したいとのことでした。婚約については、両家で相談させていただければと」
「あなたご自身は、今後も王都でお勤めを?」
「そのつもりです。結婚後の住まいも、こちらで考えています。ただ、まだ家は決めておりません。フィオナ嬢とも、よく話してからにしたいので」
父に答えてから、彼はこちらを見た。
結婚するという言葉の向こうに、住む家や、仕事へ送り出す朝がある。昨夜は抱きしめることさえ考えられなかった方と、そんな暮らしの話をしているのだと思うと、うまく頷けなかった。
「養育院へは、引き続き通いたいです」
まず言えたのは、それだけだった。
「私もです。また、あの本を一緒に読んでいただきたい」
「次は熊がお鍋を借りに行くお話です。最後までに、三回叱られます」
「それは、練習が要りそうですね」
普段の声へ戻った彼に笑いかけてから、両親の前だと思い出した。
父は咳払いをしたけれど、怒ってはいなかった。母はもう、隠さずに笑っている。
「娘と会っている時は、いつもそういうお話を?」
「はい。……いえ、それだけではありません。フィオナ嬢と話すのが、私は好きです。失敗した時も、一緒に次を考えてくださるので」
ユリウス様は今度は私を見たまま、言葉を続けた。
「ですから、私にも教えていただきたいと思っています。嫌なことも、嬉しいことも。昨日そうお願いして、次の休みに会いたいと言っていただけました」
そんな話まで父にされると、どうしてよいか分からなかった。
でも、恥ずかしいから黙っていてほしいとは思わなかった。私が会いたがったことを、この方は大事な約束として覚えていてくださる。
「今日も、お待ちしていました」
そう言うと、ユリウス様は膝の上で固く組んでいた手を緩めた。昨夜と同じ、嬉しいのを隠せない顔だった。
父は私たちの顔を順に見て、それならご両親にもお目にかかろうと頷いてくれた。
* * *
それから正式な婚約が決まるまでに、私たちは二度会った。
最初は、四日後の午後。我が家の庭でお茶を飲み、私は洗って畳んだハンカチを返した。母は少し離れた露台で、庭師と鉢植えの相談をしていた。
「ありがとうございました。お借りした時には、あんなに使うつもりではなかったのですけれど」
「持っていてよかったです。普段は、母に言われるから入れているだけで」
彼は受け取った布を上着へしまった。騎士様もお母様から持ち物を注意されるのだと思うと、少し可笑しかった。
そう言ったら、忘れ物はしますよ、と真面目に返された。
「養育院へ本を持っていく日に、本を忘れたことがあります」
「それは困りますね」
「院にある本をお借りしました。ですが、得意な熊が出てこなかった」
その日は私が熱を出して休んだ日だった。帰ってきた母が、狼のお話を読んでもらったと言っていたのを思い出す。
私の知らないユリウス様の話が、まだたくさんある。その一つずつを、ご本人から聞けることが楽しかった。
「フィオナ嬢は、おうちでも本を?」
「はい。旅行記が好きです。今は、湖を巡った方の本を読んでいます」
読んでいる途中のページを思い浮かべると、つい説明が長くなった。湖の上に渡した橋、その先にある小さな島。橋の入口に朝だけ立つ市で売っている菓子まで書かれている。
菓子の話をしたところで気がついた。彼にはまだ、お茶と一緒に出た焼き菓子さえ勧めていなかった。
「すみません。ずっと私ばかりお話しして」
「聞きたいとお願いしたんです。続けてください。その菓子は、どんなものなんでしょう」
促されて話し終えると、彼は、私は辛いものも好きなんですと言った。よく行く食堂には、胡椒をたっぷり使った煮込みがあるらしい。
「それは私、一口でお水を飲んでしまいます」
「では、別のものも頼みましょう。辛くない皿もありますから」
同じものを好きだと言えなくても、次に食べに行く話ができた。
私が湖の橋を見てみたいと言うと、彼は、本に書かれていない道も歩きたい、と話した。それは少し心配だと言いながら、私は笑っていた。
二度目の訪問には、母が頼んでおいた宝飾店の職人も来ていた。
応接間の卓に、指輪の見本を載せた布が広げられる。石の大きなものをユリウス様が見ているので、私は遠慮をしなければと思いかけた。
「こちらは、日常でもつけられるものですか」
彼が職人へ尋ねると、衣服に引っかけないよう気をつけていただく形です、と返事があった。ユリウス様は私の方へ向き直った。
「何か、ご希望はありますか。私はよく分からなくて、目立つものばかり見てしまいます」
立派なものを贈られたら、立派だから喜ばなくてはいけない。そう考える前に聞いてもらえたので、私は布の端にあった小さな指輪を指した。
「できれば、縫い物の時にも気にならない形がいいです。それから……この青い石が好きです」
職人はその見本を近くへ置き、石の留め方を説明してくれた。ユリウス様も身を寄せ、横から見た時の高さや、手袋をする時のことを尋ねる。
私は指輪を指に当ててみた。青い色は、窓へ向けると少し明るくなった。
「こちらがいいです。毎日つけていたいので」
そう言って彼を見たら、返事がなかった。どうしたのかと顔を覗き込むと、耳が赤くなっている。
「今、それを想像していました」
母が向こうでお茶を飲んでいてくれて助かった。私まで何か言わなくてはいけない気がして、でも、いい言葉が見つからなかった。
代わりに、卓の下で彼の袖の端をそっとつまんだ。彼はそこへ手を下ろして、私の指に触れた。
* * *
あの夜から二週間後、両家で正式に婚約が決まった。
ユリウス様のご両親と兄上も我が家へいらしてくださり、母たちは会うなり養育院の子供たちの話を始めた。これから親戚になるというのに、お話しすることは以前からいくつもあったのだ。
私たちも、たくさん話した。知らなかったことが一つ増えるたび、次は何を話そうと考えた。好きなものが違えば、どちらも試してみたい。嫌なら嫌と言っても、この方が私を見下すことはなかった。
婚約が決まった日の午後、私はユリウス様と我が家の庭を歩いた。
母たちは東屋でお茶を飲んでいる。薔薇の花壇の角を曲がったところで、彼が足を止め、小さな箱を取り出した。
「指輪を、つけてもよいですか」
二人で選んだ青い石が、箱の中に見えた。今日はもう、見本を当ててみるだけではない。
彼は指輪を取り出し、箱を上着のポケットへ戻した。私は外した手袋を手提げにしまい、左手を差し出した。指輪がゆっくりと薬指へ収まった。小さな青い石が、日差しを受けて光っている。
「似合っています」
「嬉しいです。ありがとうございます」
自分の手なのに、目が離せなかった。
それから顔を上げると、ユリウス様は石ではなく、私の顔を見ていた。
「何ですか」
「あなたに選んでもらえて、よかったと思って」
「指輪を?」
「私を、です」
冗談かと思って笑いかけたけれど、彼は真面目だった。私まで胸がいっぱいになった。
この方は、私が頼んだことを恥ずかしいとは思わない。人前で求婚した私を、喜んでくださっている。
「物好きだと、言われませんでしたか」
「兄に、ずいぶん羨ましがられました。自分は求婚してから返事をもらうまで、ひと月も待ったんだそうです」
彼の兄上が、あの熊の練習を見て扉を閉めた方だと思い出して、私はとうとう声を立てて笑った。
「私は、あんなお願いをした後で、ひと月も待てません」
「私も待たせられません。嬉しいのを、ひと月も隠せるわけがない」
ユリウス様は、指輪のある手を両手で包んだ。
その手の温かさを感じながら、私は一歩近づいた。今ならまだ、向こうの東屋からは薔薇の陰になる。
「ユリウス様。好きです」
彼の指が、少しだけ強く私の手を握った。
それから、握っていた手をゆっくり離し、私の腰へ腕を回す。
「私も、あなたが好きです。……口づけても?」
私は頷いた。
唇が触れる直前まで彼を見ていたら、照れるので目を閉じてほしいと、小さな声で頼まれた。その声が可愛く思えて、もう一度頷き、目を閉じた。
短い口づけの後、離れようとした彼の上着を、私から掴んだ。
「もう少し、このままがいいです」
ユリウス様は嬉しそうに笑って、私を抱き寄せた。
広い背中へ腕を回すと、さっきまで手をつないでいた時より、ずっと近くで声が聞こえた。
「喜んで」
私はその胸に頬を寄せた。誰でもいいと言われた夜、自分の足で、この人のところへ行けてよかった。




