その三
久しぶりだなあ。この看板。
「仮面劇団268」
最初にこの看板を見たときは、
「何のこっちゃ?」
と思った。自分が応募した職種と求人票に書かれた会社名「有限会社畑の湯」とは余りにもかけ離れている。そして地図を頼りに到着したのは本当に銭湯の前。
でも、その破風造りと呼ばれる昔ながらの銭湯らしい立派な三角屋根から視線を動かすと、小さな木の看板にその奇ッ怪な劇団名が書いてあり、
「求人応募の方はこの先」
という貼り紙が脇に付してあって、矢印が建物の裏手に回るよう指示されていて、とりあえず一安心した。
創業当時、東京郊外のこの辺りは畑が広がっていて、畑の中の銭湯だから畑の湯と名付けられた。丁度それらの畑をつぶして、ぽつぽつと住宅が建ち始めていた頃だった。
今はその面影も無くなったけれど、開業当時の広々とした銭湯の用地は保たれ、そこにマンションが建てられている。
そして、かつて薪で風呂を沸かしていた頃、それを貯蔵したり、風呂焚き用の大きな釜があったところが、我らが仮面劇団268の稽古場になっている。
要するに、劇団の創始者である現会長が旗上げの際、家業が銭湯なことにちなんで劇団名を付けた。
つまり、風呂屋が転じて、数字に置き換えると……、ってダジャレの意味をあとから言葉でグダグダ言うのも野暮だけれど。
通い慣れた私たちはこの稽古場をアジトと呼ぶ。銭湯の入口からもマンションの玄関からも見えないところの、秘密基地といった風情だから。
久々の稽古で腕が鳴る。私の知った顔はどれだけ残ってるだろう?
「こんばんはー」
……って、何やってるのアナタたち。
——
私がここに通っていたのは何年も前のことだけど、この仕事を始めたのは社会に出てからずっと後のことだ。
私の社会人デビューは声優だった。それなりに人気もあったけれど、結婚を機に仕事をセーブし、主婦業を生活の軸に置いた。
しかし、家事ばかりで外との接点も減るのは、どうも私の性に合わなかった。出来ればもっと外に出たい、そうだ、若いうちに声優業界に入ったためにできなかったアルバイトというものを経験してみよう、そう思った。
とは言え、生まれて初めてのバイト探し、いきなり未経験の職種につくのは抵抗があり、迷っている中で見つけたのが、この「仮面劇団268」だった。
その変わった名前に引かれて求人内容を読むと、仮面とはいわゆる「着ぐるみ」の例えであることが分かった。
着ぐるみの中に入って、アニメのキャラクターになりきって演技をする、そういう仕事の存在は知っていた。だって声優をしていた頃、着ぐるみを着て行うメルヘンショー向けのアフレコをやった事があるから。
そう考えると、声優とは違った仕事だけれど、まるで縁がない仕事でも無い。よし、やってみるか、そんな軽い気持ちで面接に臨んだのだった。
いざやってみると、声だけで演技する声優とは正反対の、身振り手振りだけで感情を表すこの仕事が、とても新鮮で楽しかった。
仕事仲間にも恵まれた。ここではショーの出演者をキャストと呼び、主に毎週末に各地で行われる着ぐるみショーのため、キャストやスタッフを集めてチームを作り、それを取りまとめるのがリーダー。
リーダー役はショーのMCも兼任する事が多く、唐沢さんという女性がその役につく事が多かった。唐沢さんは面倒見の良い人で、初心者の私も多くのことを教わった。
ところが、私の活躍の時期はそう長くなかった。それは子どもを授かったからで、出産後もしばらくは子育てに専念していた。
娘は順調に育った。私はそろそろメルヘンショーの舞台に戻りたいと思い、その間に備えて保育園を探し始めた。
だが同時に、夫との仲が悪くなり、ついには別れることに。その結果、主に休日の仕事となる着ぐるみキャストはあきらめ、週五日程度キッチリ働ける別の仕事を選ばざるを得なくなった。
朝、娘を保育園に送り、夕方まで仕事をして、終業後に娘を迎えに行く。その繰り返しの日々。忙しい。いつしかスーツアクター復帰への道には目を向けないようになっていた。
そんな時、久しぶりに唐沢さんから電話があった。内容は、
「人手不足で困っている。特に経験者が足りないので、力を貸して欲しい。子どもについては考えるから」
というもの。
家事と育児と仕事で、いっぱいいっぱいの日々。でも、お世話になった唐沢さんからの頼みを電話だけで断るのも気が引ける。ならば話だけでも聞こう、そう思って私は今日、ここにやって来た、のだけど。
——
緊張感のカケラも無い……。
キャストの子たちが車座になり、ワイワイやっている。その床にはずらっと並べられた何着もの衣服。カワウソが獲物を地面に並べたさまを「獺祭」と言うけれど、まさにその様相。
「あ、こんにちはー!」
彼女たちは私に気づくと、こちらの困惑も何のその、平然と挨拶する。その面々の中には初対面の子もいれば、見知った顔も複数。そして、
「佳代子さんもこっち来て、やりましょうよ、楽しいですよ?」
と、聞き覚えのある声。そして手招き。
「何やってるのよ一体」
床にぺたんと座っているキャスト達の輪に加わって、改めてそこに並べられた衣服を見る。そして、わざと呆れた様子に見えるよう、ため息とともに一言。
「みんな、物持ちが良いよねえ」
床陳列された品は、高校の制服。そしてどれもこれも、俗にお嬢様学校と呼ばれる女子高のもの。
仮面劇団268は、原則として女子のみをキャストに採用している。もともと身長の低い方が着ぐるみを着るには有利だし、自前で手がけるショーは女の子向けの物に絞っているから。
ところが、男女雇用均等法により女性のみ、または男性のみの求人募集というのが原則として出来なくなった。俳優のように表現上性別を区切って募集をかける必要がある場合は例外で認められるそうだが、当時の担当者がスーツアクターは中身の性別は一般的にどちらでも良いと考えられるので例外の適用はされないのではないかと考えたらしい(実際役所に問い合わせたかは知らない)。
そこで求人を、女子大や短大の学生課などを通じて出すことにした。これならおのずと女性のみを集めることが可能になる。確か私はこの方式になる前、一般の求人誌での最後の募集でこの劇団に加わった。
したがって、私より後に入ったキャストはほとんど女子大や短大の学生だったり、かつてそうだった子ばかり。似たような年代の子が集まるから、それぞれの大学について語り合っているうちに、どこどこの制服可愛いよね、とか、あなたの高校の制服、着てみたいな、とかいう話に発展したようだ。
気持ちはわかる。私も学生時代、母校の制服への愛着とはまた別に他校の制服に憧れたりしたから。
でも、それとこれとは別だ。少なくとも、特にキャスト時代の私を知る元同僚たちが寄ってたかって私に制服を着せようとしてくるのは勘弁願いたい。
だいたい私、自己紹介もしていないのだが。




