第9話 三度、振り返れ
岱の軍議は、国境に近い城の広間で開かれた。
初夏である。窓から斜めに光が差しこみ、広間の中央に広げた汪野の地図の上を、諸将の影が行き来していた。
岱は北の強国である。天下を統べる国は、たいてい北から興る。そのことは、いくつもの史書が語っている。岱の重臣たちも、うすうす自負していた。
自負しているから、この国の軍議は、しばしば議論をせず、ただ確認をする場になる。
上座に、主将の公孫燁が座っていた。
名門の出で、父はかつて、岱の名将と呼ばれた男である。眉が濃く、顔立ちには、どこか亡き父の面影があった。
その面影が、この男には重荷だった。
人はまず父の名で彼を語り、それから、彼自身を見る。
この男を推したのは、宰相の彭延である。彭延は、若い名門の将を好む。
「兵は、実数にして三万」
公孫燁は、地図の上に手を置いた。
「三万では、士気が上がらぬ。号して四万とせよ。澗の耳にも入れよ」
広間に、うなずく気配が広がった。
号するとは、数をふくらませて敵の胆を冷やすことで、むろん兵法のうちである。
*
副将の席で、岳崇だけが地図を見ていなかった。
五十を越えている。頬骨の高い、乾いた顔である。
三年前、汪野で敗れた将だった。敗れたあとも、歴戦の将軍としての籍は失わなかった。だが、いまは副将の席にいる。その席順のなかに、悔いを見て取る者もいた。
「その澗ですが」
岳崇が、口を開いた。
「三年前、それがしはあの野で、ひとりの男を見ました。名を賈牧といいます。当時は、別動隊を率いる若い武官にすぎませんでした」
「聞いている」
公孫燁は、目を上げた。
「蘇謙が戦死した直後に、横から突いた男であろう。その報告は読んだ」
「あれは、運ではありませぬ」
岳崇は、静かに言った。
「あの男は、こちらの進軍の速さを読んでおりました。われらがどこで足を止め、どこで乱れるか。それを見て、その場所に兵を置いた」
「たまたまだ」
「たまたまで、一万二千が退きましょうか」
言ったあとで、岳崇は、しまったと思った。
一万二千が退いた、という言い方は、指揮を執っていた自分自身をも刺している。案の定、公孫燁の口元が、かすかにゆがんだ。
「岳崇どの」
公孫燁は、ていねいな口調で言った。
「岳崇どのは、敗軍の将である。それゆえ、敵を大きく見なければならぬ。それがしは、そうではない。あの野を、われらは三万で渡る。三万に、細工は通じぬ」
広間の隅で、誰かが小さく笑った。
岳崇は、口を閉じた。
頭のかたい男である。彼は、それを自分でも知っていた。主将の言葉には、まず服する。それが軍というものだと、三十年にわたって信じてきた。
信じているから、この場でも言い返さなかった。
ただ、ひとつだけ、言わねばならぬことがあった。
「では、進軍のことのみ申し上げます」
岳崇は、はじめて地図に目を落とした。指が、岱の右翼の駒の上で止まった。
「右翼は、中央と歩調を合わせていただきたい。あの野は広い。足の速い隊がひとつでも前へ出れば、そこから列が割れます」
「右翼は、雷驍に任せる」
公孫燁は、即答した。
「雷驍は足が速い。よいではないか。先鋒に、そういう者がいるのは」
「足の速い者を、走らせてはなりませぬ。あの男は、走りはじめれば、止まりませぬ」
「岳崇どの」
公孫燁は、少し笑った。
「それがしは雷驍を信じている。岳崇どのは、雷驍の働きを疑っておられるのか」
岳崇は、その笑いのなかに、あるものを見た。
私情であった。
雷驍は、公孫家の家人の出である。公孫燁が若いころから、手足のように使ってきた男だった。
この戦は、公孫燁にとって初めての大きな戦である。そしてこの男は、腹心に大きな手柄を立てさせてやりたいと思っていた。
おのれの功を、腹心の功として分けてやりたい。そういう種類の温情だった。
温情は、おうおうにして、軍を割る。
公孫燁は、最後に、ひとつだけ付け加えた。
「もうひとつ。全軍への号令は、本陣ひとつから出す。副将の令も、本陣を経て諸隊に下す。命令は、ひとつの口から出てこそ、軍がまとまる」
理屈としては、間違っていない。
間違っていないから、岳崇は、うなずくよりほかなかった。
「承知いたしました」
そう答えながら、岳崇は、心のどこかで、細い糸が切れるような音を聞いた。
*
軍議のあと、廊下で、ひとりの大男が岳崇を呼び止めた。
雷驍である。
身の丈は六尺を越えていた。首が太く、腕が太い。笑うと、声が石の廊下に響いた。
「岳崇どの、澗の騎兵とは、どのようなものですか」
「少ない」
「少ない」
雷驍は、目を輝かせた。
「それなら、追えばよいのですな。追えば逃げる。逃げれば追う。わかりやすい戦だ」
そこに悪意はなかった。
あるのは、主君に報いようとする、まっすぐな思いだけだった。岳崇は、この男を憎めなかった。
憎めないだけに、いっそう気が重くなった。
「雷驍」
「はっ」
岳崇は、しばらく黙って、大男の顔を見上げた。
「逃げる敵を追うときは、追いつく前に足を止めよ。三度、振り返ってから、また追え」
雷驍は、きょとんとした顔をした。それから、大声で笑った。
「三度も振り返っておりましたら、日が暮れます」
岳崇は、それ以上、何も言わなかった。
笑い声を廊下に残して、雷驍は去っていった。大きな背中だった。
一度も、振り返らなかった。
*
その夜、岳崇は、ひとり陣の外に出た。
北の空には、星が多かった。南、澗の方角の空には、星が少ない。雲が出ているのであろう。
汪野の麦は、そろそろ色づくころである。
三年前の光景が、目に浮かんだ。
倒れた蘇謙。崩れる澗の本隊。勝った、と岱の誰もが思った、その刹那――左のほうから、あの男の別動隊が、土埃を上げて現れた。
「右翼が走れば」
岳崇は、独り言を言った。
「あの男は、そこを突く」
それを、誰にも告げられぬことが、岳崇にはわかっていた。
告げたところで、この声は、本陣を経てしか、どこへも届かぬのである。
夜明け、城門が開いた。
太鼓が鳴り、旗が動いた。先頭をゆく大男の大刀が、朝の光をはじいていた。
「号して、四万」
その声は、軍よりも先に、南へ走った。
だが、汪野の南に、その数を信じない男がひとりいた。




