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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第2章 第二次汪野の戦い

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第8話 道が来る

汪野《おうや》の麦が、色づきはじめた。


 この平原は、澗《かん》のなかでも、とりわけ戦のためにあるような土地であった。北に岱《たい》を望み、南に王都・泉陽《せんよう》を背負う。ただ広いだけの野でありながら、ここを取る者が北を制し、ここを失う者が都を失う。


 それでも、幾世代もの百姓が、この野に麦を播きつづけてきた。土が、よく肥えていたからである。


 人は、戦のある土地でも、土がよければ耕す。そういう生きものらしい。


   *


 その朝、賈牧《かぼく》は数騎を連れて、汪野の北のはずれまで馬を出した。


 野は、まだ露に濡れていた。馬の脚が麦の葉を分けるたびに、白い滴がこぼれた。鞍の上の賈牧の背は、三年前と同じように、すこし固い。


 物見が、三日つづけて、同じことを告げていた。


 ――岱の側の道が、広がっている。


 道を広げるのは、荷車を通すためである。荷車を通すのは、兵糧を運ぶためである。


 兵が来るまえに、道が来る。


 戦の前触れとして、これほど正直なものはない。


 北の丘の肩で、賈牧は馬を止めた。遠い稜線の手前に、土埃が細くたなびいている。風に乗って、かすかに、槌の音が聞こえた気がした。


「補修の人夫でしょうか」


 従者が言った。


「三年前、あの道は、牛車が一台通れるかどうかであった」


 賈牧は、それだけ言った。


 いまは、二台が並んで通れるという。人夫の数の話ではない。岱は、道を、作りなおしている。


 来る、ということである。


   *


 昼すぎ、賈牧は調練場に回った。


 乾いた土の上に、蹄の音が響いていた。


 澗の騎兵は少ない。山を負い、河に養われる、歩兵の国である。馬は高く、飼い葉もかかる。その少ない騎兵のなかで、范鴻《はんこう》の隊だけが、この三年、目に見えて厚くなっていた。


 賈牧が馬を止めたとき、范鴻はちょうど、調練場の端から全速で駆けだしたところであった。


 妙な馬の使いかたである。


 ふつうの騎兵は、駆けながら馬首をめぐらせるとき、いったん足をゆるめる。ゆるめなければ、馬も人も、振り落とされるからである。


 范鴻は、それをしない。


 駆けている馬が、駆けたまま、ふいに向きを変える。変えたときには、もう反対へ走りだしている。


 馬が曲がった、というのではない。馬の走る方角が、そこで、にわかに入れかわったような具合であった。土煙が、遅れて、もとの方角へ流れた。


「曲芸だな」


 うしろで、誰かが言った。古参の騎兵の将校らしい。


「敵前であのような真似をすれば、隊列が崩れる。亡命者の子は、戦の作法を知らぬ」


 声は、聞こえよがしであった。


 范鴻は、澗に生まれ、澗で育った。それでも、父の范厳《はんげん》が国を捨てたという一事が、この若者を、いつまでも余所の者にしていた。澗の軍は、范鴻を、置きどころのない客のように扱っている。三年たっても、それは、さほど変わらなかった。


 賈牧は、ふりかえらなかった。


「曲芸かどうかを決めるのは、われらではない」


「では、誰が」


「追ってくる敵だ」


 将校は、わからぬという顔をした。賈牧も、それ以上は言わなかった。


 ちょうどそのとき、ひと駆けを終えた范鴻が、馬の息を整えながら、すぐそばを通りすぎていった。聞こえたかどうか、その顔からは、わからなかった。


 調練がおわると、范鴻が馬を引いて、賈牧のもとへ来た。鞍に、戟がくくりつけてある。古い戟であった。柄の漆は、ところどころ剥げている。だが、刃の根もとには、ていねいに油が引かれていた。


「よい戟だな」


 二年あまり手もとに置きながら、賈牧がこの戟のことを口にしたのは、これがはじめてであった。


「父のものです」


 范鴻は、ことば少なに答えた。


「父は、これを孤雁《こがん》と呼んでおりました」


「なぜ、孤雁と」


「聞かぬうちに、死にました」


 それだけ言って、范鴻はすこし笑った。笑うと、思いがけず、歳相応の顔になった。


 賈牧は、その顔を、しばらく見ていた。


   *


 帰りは、汪野を突っ切った。


 麦畑のなかに、岑《しん》がいた。しゃがみこんで穂をつまみ、指のあいだでほぐし、掌にのせた粒に息を吹きかけている。皮が飛び、粒が残った。


「まだ、青うございますな」


 岑は、賈牧を見あげて言った。


「あと十日もあれば、刈れましょう」


 賈牧は、馬をおりなかった。


「岱は、来ますかい」


 畑の者は、軍の動きに敏い。荷車の軋みを、風に乗せて聞くのである。賈牧は、嘘をつけなかった。


「来る。十日のうちか、二十日のうちか。それは、わからぬ」


「十日なら、刈れますな」


 岑はそう言って、また穂に目を落とした。


 賈牧は、答えることばを持たなかった。


 野のむこうに、草をかぶった古い堤が、東西に長く横たわっている。賈牧は、そちらを見なかった。見なかったが、幕の行李の底にある、手垢で黒ずんだ一冊のことを、思った。


   *


 その夜、王都から史連《しれん》がもどった。


 老将は、鎧を脱ぐより先に、賈牧の幕をたずねた。肩に、街道の白い埃が残っていた。


「兵は、総勢で一万五千を願い出た」


「はい」


「一万一千と、相成った。陛下は、勝てばよいではないか、と仰せであった。勝てるものなら、兵は少のうてもよい、と」


 史連は、笑いもせずに言った。


 昭安王《しょうあんおう》が凡庸であることは、澗の者なら誰もが知っている。


 ただ、凡庸な王ほど、もっともらしいことを言うものである。勝てばよい、という理屈は、まちがってはいない。まちがっていないから、始末がわるかった。


「足りませぬな」


「足りぬ」


 史連は、うなずいた。


「だが、足りぬときにこそ、人の値打ちが知れる。わしは、そう思うことにした」


 その目が、賈牧をとらえた。何か言いかけて、やめた。老将は、それきり口をつぐんだ。


 賈牧は幕を出て、北の空を見た。星の、ほとんど見えぬ夜であった。


 一万一千。


 その数で、あの広くなった道から来るものを、受けねばならない。


   *


 そのころ、北の岱では、汪野へ向かう軍の顔ぶれが、決まりつつあった。


 兵は、三万。


 率いるのは、まだ汪野を知らぬ、名門の若い将である。


 そして副将の席には、三年前、あの野で賈牧に敗れた男が座ることになっていた。


 岱の陣中で、賈牧という名を本気で恐れている者は、その男ひとりであった。


 汪野の麦は、まだ青かった。

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