第7話 六冊目
賈牧の屋敷には、兵書が一冊もない。
そのかわり、ほかの書なら、床が見えぬほどある。
*
建徳十八年、初夏。
岱がふたたび兵を集めている、という噂が澗の王都に流れはじめたのは、汪野の麦の穂が、ようやく色づきはじめた頃であった。
第一次汪野の戦いから、三年が過ぎている。
あの夏、二十歳で右翼の千五百を預けられた若者は、いまでは総大将・史連のもとで、澗軍の軍師をつとめている。范鴻の騎兵も、この三年でめきめきと精強さを増した。馬の扱いだけではない。賈牧の命を受けて、戦場でどこへ向かうべきかを、自分で判断できる兵がふえている。
だが、賈牧自身の身なりも物言いも、三年前とさして変わらなかった。
北の国境へ発つ朝、范鴻は賈牧の屋敷を訪れた。
王都の北の外れの、古い小さな屋敷である。門は傾き、庭には花の一本もない。父祖が澗に功のあった家柄だとは聞いていたが、爵位も領地も望まなかった男の住まいとしては、なるほどこうであろう、と范鴻は思った。
出てきたのは、福という名の老僕であった。賈牧の父の代から、この屋敷に仕えているという。その父が亡くなってからは、屋敷に残った奉公人は、この老人ひとりであった。范鴻の顔を見ると、困ったように笑った。
「旦那様は、まだ奥におわします。お入りになるなら、足もとにお気をつけくださいませ」
足もと、の意味は、廊下に入ってすぐにわかった。
書である。
壁際の棚は、とうに溢れていた。溢れた分は棚の前に積まれ、積まれた分は廊下の半ばまで崩れ出して、角のあたりでは、腰の高さの書の山が、人ひとり通れるだけの幅を残して左右にならんでいる。巻いたもの、綴じたもの、紐のほどけかけたもの。背には、虫に食われた跡が白く残っていた。
范鴻は、横歩きで奥へ進んだ。戦場で穂先をかわすときより、よほど気をつかった。
奥の間に、賈牧がいた。
床に座り、膝の上に一冊をひろげている。傍らに、蓋のあいた行李がひとつ。出立の支度をしているはずの男が、読んでいた。
「ああ、来たか。すぐ済む」
賈牧は、顔もあげなかった。
范鴻は、部屋を見まわした。寝床が、壁際の一隅に、ひどく遠慮がちに敷かれている。部屋の残りは、すべて書であった。
「……全部、か」
范鴻は、めずらしく、ことばを探してから言った。
「読んだのは、半分ほどだ」
賈牧は、頁をめくった。
「残りは、これから」
戸口で、福が小さく息をついた。
「旦那様は、爵位も田畑もお望みにならなんだと、人は申しますが」
范鴻は、うなずいた。その話は、澗の軍で知らぬ者がない。
「そのかわり、書だけは手放されませぬ。書肆の前を通れば足が止まり、止まれば、買うておられる。先月も、荷車で参りました」
「福。余計なことを言うな」
賈牧は、いくらかばつの悪そうな顔をした。
范鴻は、手近の山から一冊を取った。農書である。つぎは治水の書。その下は各地の地誌。古い暦。土の色を記した帳面。虫の害を記した書。
兵書が、ない。
どの山を崩しても、一冊も出てこない。
「戦の書は」
「ない」
「……なぜ」
賈牧は、すこし考えた。
「戦は、地と水と、人の腹で決まる。そちらの書のほうが、役に立つ」
それで、説明は終わった。説明にはなっていないが、范鴻は、それ以上は訊かなかった。この男の言葉に余白があることには、三年のうちに慣れている。
手にした地誌の背に、汪野、という字が読めた。表紙は手垢で黒ずみ、角がまるくなっている。ほかの書とは、めくられた数がちがう。范鴻は、それを、もとの山の上へそっと戻した。
*
范鴻は、行李を見た。
「二冊だけだ」
訊かれもしないのに、賈牧は真顔でいった。
それから半刻、范鴻は待たされた。賈牧は山のあいだを行き来しては、一冊を行李に入れ、しばらく考えて出し、べつの一冊を入れた。門前で、馬がいらだたしげに足を踏みかえている。
山の上の、あの黒ずんだ地誌に、賈牧の手が一度だけ伸びた。伸びて、触れずに、戻った。
ようやく賈牧が立ったとき、行李には、どう見ても五冊あった。
「旦那様の二冊は、いつも五冊でございます」
福が、ぽつりといった。
「よく言われる」
賈牧は、ほとんど悪びれずに答えた。
賈牧が先に廊下へ出たあと、福が山から一冊を抜いて、行李の隅にそっと差しこむのを、范鴻は見た。何の書かは、見えなかった。見えなかったが、黙っていた。
門を出るとき、賈牧は一度だけふりかえった。
「福、留守を頼む」
「はい。書は、虫に食わせませぬ」
老僕は、深く頭をさげた。傾いた門の奥の、書の山の屋敷に、賈牧が何を見たのかは、范鴻にはわからない。ただ、その顔は、戦へ向かう男のものとは、すこしちがっていた。
*
汪野の陣に入ると、軍議に先立って、賈牧は范鴻だけを伴い、野の検分に出た。
三年前と同じ道である。
あのとき蘇謙の本陣が構えた窪地の縁も、賈牧が千五百を伏せた右翼の丘も、いまはただ、一面の麦であった。穂は黄みを帯びはじめ、風がわたるたびに、野がゆっくりと波を打つ。ここで多くの人が死んだことを、麦は知らない。
畦の水口で、ひとりの男が鍬をふるっていた。詰まった泥を掻きだし、水の通りを確かめている。男は二人に気づくと、鍬を畦に立てかけて、歩いてきた。
岑であった。
「これは、将軍様」
「息災だったか」
「おかげさまで」
岑は、北の道のほうへ目をやった。
「此度もまた、戦になるのですかい」
「なろう」
賈牧の返事は短かった。
岑は、小さく息を吐いた。諦めとも、慣れとも取れるため息であった。
この三年、汪野の民は、戦の噂を何度も聞いてきた。岱が軍を動かす。澗が兵を集める。やがて、どちらかがこの土地へ入ってくる。戦はまだ始まっていない。それでも民にとっては、噂が届いたときから、暮らしの一部がもう変わりはじめている。刈り入れを急ぐか、待つか。子を親類へ預けるか、手もとに置くか。そういうことを、百姓は噂ひとつで決めねばならない。
「将軍様に、一つ伺いたいことがございます」
「申せ」
「三年前、あなた様は、兵隊さんに、うちの麦を起こさせなすった」
岑は、足もとの麦に目を落とした。
「あれ以来、この辺りの百姓のあいだじゃ、将軍様のことを、すこし違う目で見るようになりましてね。……それで、お耳に入れておこうと思ったんで」
岑は、畦の向こうを指した。
「あの古い堤、ご存じですかい」
賈牧の目が、わずかに動いた。
「東西に走る、あれか」
「へえ」
野のむこうに、草に覆われた長い土の盛りあがりが、東西に横たわっている。ところどころ土が崩れ、遠目には、野の起伏のひとつにしか見えない。人の手が長く入っていないことは、ひと目でわかった。
「あの堤の向こうを、西の山から下りてくる川が流れております。ふだんは細い流れですが、あの堤が、その水を、野へあふれぬように留めておるんで。もう何十年も、まともに手入れはされちゃおりません。ですが、切ればどうなるか――この辺りの年寄りは、皆知っております」
「切れば、どうなる」
「水路の筋に沿って、この一帯が、そっくり水に浸かります」
岑は、堤のこちらに広がる麦を見わたした。
「氾濫原ってのは、つまり、そういう土地なんで。乾いた年に戦をなさるお歴々には、あまり馴染みのない話かもしれませんが」
范鴻が、堤へ目を向けた。
「……ここが、水に」
「へえ。水は、低いほうへ流れますからな」
岑は、さも当然のことのように言った。
「ただ、どこまで浸かるかは、切る場所と水の量しだいで。昔の年寄りなら、もっと詳しく知っておりましたろうが」
賈牧は、しばらく黙っていた。
目は、堤へ向けられたままである。土の高さ。崩れた箇所。その手前に広がる低い土地と、麦のあいだにかすかに窪んで残る、水路の筋。
三年前の夜、賈牧はこの野で、同じ筋を、星明かりの下で飽かずに目でなぞった。あのとき見えていたのは、筋の形だけであった。
いま、その筋に、水が流れた。
賈牧は、岑に向き直り、深く頭を下げた。
「良いことを聞いた。礼を言う」
「畏れ多いことで」
岑は、慌てて頭を下げ返した。戦の将が、一介の百姓に頭を下げる。三年前にもそうだったが、いつまで経っても慣れぬことであった。
*
丘へ戻る道で、范鴻が口をひらいた。
「なぜ、堤を」
賈牧は、すぐには答えなかった。遠くで、澗軍の旗が風に鳴っている。
「関わりがないと、言い切れるものでもあるまい」
独り言のような声であった。
范鴻は、それ以上は問わなかった。ただ、屋敷の山の上に戻した、手垢で黒ずんだ一冊のことを思った。背に、汪野とあった。この男は、野を見に来ているのではない。読んだものを、確かめに来ているのかもしれぬ。
丘の上で、賈牧はもう一度、堤の方角をふりかえった。
その手前には、麦畑が広がっている。人が暮らし、種を播き、刈り入れを待つ土地であった。
水は、恵みになる。そして、使いかたによっては、すべてを奪う。
*
その夜、范鴻が見回りの途中で賈牧の幕の前を通ると、灯が、まだ点いていた。
幕の隙間から、床に座った賈牧の背が見えた。行李の蓋があいている。膝の上に、一冊がひろげられていた。
表紙が、手垢で黒ずんでいた。
范鴻は、足を止めた。
「……福か」
賈牧は、ふりかえらずに答えた。
「福だ。あれは、儂がどれをいちばんめくったか、知っておる」
頁が、一枚、めくられた。灯のなかに、細い墨の線で描かれた汪野の図が見えた。東西に走る一本の太い線。その内側に、髪の毛ほどの筋が、幾本も枝分かれしている。
「五冊のうちには、入れなかった」
賈牧は、ひとりごとのように言った。
「持ってくれば、読む。読めば――」
そこで、ことばが切れた。
幕の外に、駆けてくる足音がした。北へ出していた物見であった。息を切らしたまま、范鴻の脇に膝をついた。
「申し上げます。岱の側の道が、広がっております」
范鴻は、息をのんだ。道を広げるのは、大軍と、その腹を満たす荷駄の列を、通すためである。
賈牧は、地誌を閉じた。
「下がって、休め。明日も、同じ道を見てこい」
物見が去ったあとも、賈牧は、閉じた書の上から手を離さなかった。
読めば――のその先を、賈牧は、ついに口にしなかった。
范鴻も、訊かなかった。
北の闇のむこうで、道は、夜のあいだも広げられていた。




