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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第1章 第一次汪野の戦い

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第6話 父の名

建徳十五年の暮れであった。


 王都泉陽(せんよう)の市のはずれに、酒亭のならぶ通りがある。日がかたむくと、軒ごとに灯がともり、干し魚と酒の匂いが、北風にまじって石畳を流れてゆく。その通りのまんなかで、ひとりの若者が、数人の兵にかこまれていた。


 若者は、馬の轡(くつわ)をとったまま、立っている。兵たちは、どこかの隊付きの者らしい。どの顔も、酒で赤かった。


「亡命将軍の倅(せがれ)が、えらそうに馬など乗りまわしおって」


「父親はよその国へ尻尾をふって逃げたというに、倅はこの国で、のうのうと馬に乗っておる」


 若者は、こたえなかった。こたえれば、口答えをする逆賊の子、という名目を相手にあたえる。この十年、范鴻(はんこう)は、そういう呑みこみ方ばかりを覚えてきた。


 兵のひとりが、馬の首を小突いた。馬がおどろいて、足を踏みかえた。范鴻の手が、腰の得物のほうへ、すこし動いた。


「おもしろい話をしておるな」


 通りのむこうから、声がした。大きな声ではなかった。


「ちょうどよい。賭けをせぬか」


 兵たちがふりむくと、まだ若い、線の細い男が立っていた。綿入れの上に、くたびれた外套をはおっている。将というより、書物の匂いのする小役人のように見えた。


「何者だ」


「賈牧(かぼく)と申す。この夏、汪野(おうや)で右翼をあずかった者だ」


 兵たちのあいだに、かすかなざわめきが走った。その名は、夏のおわりから、王都の噂になっていた。


 范鴻も、顔をあげた。秋のはじめに届いた沙汰書に、その名が記されていた。


 ただ、酒の勢いというものは、名ひとつで引っこむものではない。


「賭けとは、何だ」


「この者、范鴻といったか。馬の腕に覚えがあるらしい。そこの大通りを、市の端から鐘楼まで、馬で競わせてみてはどうか。お主らのうちで、いちばんの乗り手を出すがよい」


「なめた口を。こちらが勝ったら、どうする」


「范鴻が負ければ、儂がこの場でお主らに詫びよう。頭も下げる。だが、お主らが負ければ、今後いっさい、この者の父の名を口にせぬと誓ってもらう」


 兵たちは顔を見あわせた。こちらにも、隊で鳴らした乗り手がいる。亡命将軍の倅ひとりに、馬で負けるはずがない。酒の驕りが、かれらの目をくもらせた。


「よかろう。乗ってやる」


「では、儂も走ろう」


 賈牧は、通りの脇の馬つなぎから、自分の馬の手綱をほどいた。鹿毛(かげ)の、おとなしそうな馬であった。


 兵たちが、目をまるくした。


「お主も、か」


「勝ち負けは、范鴻とお主らの乗り手の、先後で決める。儂は、数に入れずともよい」


「では、何のために走る」


「見ているより、走るほうが、よくわかる」


 答えになっていなかった。兵のひとりが、吹きだした。書物の匂いのする男が走って何がわかる、という笑いであった。賈牧は、気にしたふうもなく、鐙(あぶみ)に足をかけた。鞍へのぼる身のこなしが、すでに、すこしぎこちなかった。


 范鴻は、だまって、それを見ていた。この男が何のために出てきたのか、わからなかった。わからないまま、馬にのぼった。


 石畳の端に、三頭がならんだ。


   *


 合図とともに、范鴻は馬を出した。


 手綱をとる強さ、体のあずけ方、馬の息との合わせ方。どれも、考えてやることではなかった。物心つくまえ、父の范厳(はんげん)の鞍の前に乗せられて、野を駆けた。そのころから、体が覚えている。騎馬の民の生まれではない。ただ、馬とともにあった歳月が、ながかった。


 酒亭の灯が、うしろへ、うしろへと飛んでいった。


 鐘楼の下に着いたとき、兵の馬は、二馬身あまりうしろにいた。


 賈牧は、まだ、通りのなかほどにいた。


 鞍の上で、背がまるい。手綱を短くもちすぎて、馬がしきりに首をふっている。それでも落ちまいと、鞍の前輪にしがみついていた。鹿毛のほうが主人をいたわるように、駆け足ともつかぬ足どりで、とことこと、鐘楼へ向かってくる。


 見物の人垣から、どよめきがおこった。范鴻への喝采と、それとは別の、腹をかかえた笑いとが、ひとつになった。


 兵たちも、笑っていた。范鴻に負けた男でさえ、あれよりはましだ、という顔で、苦笑している。通りに張りつめていた酒の毒が、その笑いのなかに、いつのまにか溶けていた。


「誓いは、守る」


 兵の頭らしい男が、そういいすてた。苦い顔ではあったが、その声に、もう棘はなかった。兵たちは、笑い声をのこして、酒亭の灯のほうへ消えていった。


 范鴻は、馬の首をなでながら、その背を見送った。負けた者が、負けた顔をせずに帰ってゆく。そういう収まり方を、范鴻は、この十年、一度も見たことがなかった。


 賈牧が、ようやく鐘楼に着いた。馬からおりるのにも、すこし手間どった。


「見事だ。噂のとおりの腕だな」


「……わざと、遅く」


 范鴻は、それだけいった。


「いや」


 賈牧は、乱れた襟をなおしながら、いった。


「あれで、精いっぱいだ」


 范鴻は、その顔を見た。嘘をいっている顔ではない。しかし、本当のことを全部いっている顔でもない、ように思えた。どちらなのか、范鴻には、わからなかった。


「なぜ」


「お主を訪ねる道で、行きあった。たまたまだ」


 賈牧は、それ以上いわなかった。たまたまにしては出来すぎている、と范鴻は思った。思ったが、口には出さなかった。


   *


 鐘楼の脇に、小さな茶屋があった。賈牧は、そこへ范鴻を誘った。


 范鴻は、すすめられるまま卓についた。運ばれた茶には、手をつけなかった。土間の火鉢で、炭が、ときおり小さくはぜた。


「王の沙汰は、届いておろう」


 范鴻は、茶碗に目をおとしたまま、うなずいた。


 届いたが、本気にはしていなかった。どこかの役人の、筆のあやまりであろうと思っていた。亡命将軍の子を、すすんで己の下に望む者など、この十年、ひとりもいなかったからである。出向いて門前で追いかえされるくらいなら、出向かぬほうがよい。沙汰書は、行李の底にしまったままであった。


「誤りではない。儂が、王に願い出た」


「……なぜ」


「騎兵を御せる者が必要だ」


「范厳の、子だ」


 自分から、その名を出した。相手がどういう顔をするかを、見るためであった。


「聞いておる」


「父は、国を捨てた」


「聞いておる」


「それでも、か」


「置く」


 賈牧は、迷わずにいった。


「父の罪と、お主の腕とは、別のものだ。王にも、そう申しあげた」


 范鴻は、しばらく黙っていた。茶碗の面に、火鉢の火が、小さく映っている。


「……どうせ、『だが』が付く」


 低い声であった。


 この十年、腕は買う、だが、といわれつづけてきた。だが、のあとには、かならず父の名が来た。そうして最後には、誰の下でも、ほんとうには信を置かれなかった。范鴻は、それを口には出さなかった。出さずとも、その一言には、十年ぶんの重さがあった。


「儂は、『だが』とはいうておらぬ」


 賈牧は、静かに、しかしはっきりといった。


「腕を買う。それだけだ。父のことは、お主の功のうちにも、罪のうちにも数えぬ。もし儂が、いつか、お主の父の名をもって何かを疑うことがあれば、そのときは、儂を斬ってよい」


 范鴻は、顔をあげた。


 相手は、冗談をいっている顔ではなかった。力んでいる顔でもない。あたりまえのことを、あたりまえにいっている顔であった。


「……変わった、人だ」


「よく言われる」


 范鴻の口もとが、わずかにゆるんだ。十年張りつめていたものが、ほんのひとすじ、ほどけたような笑みであった。


 范鴻は、茶碗をとり、はじめて、それに口をつけた。茶は、もう、ぬるくなっていた。


「腕は、貸す」


「うむ」


「忠義という言葉は、信じぬ。功を、見てくれれば、よい」


「承知した」


 それきり、ふたりとも、何もいわなかった。


   *


 茶屋を出ると、通りはすっかり暮れていた。


 鐘楼の上の空に、星がひとつ出ている。北風が、酒亭の灯をゆらしていた。


 賈牧は、鹿毛の手綱をとった。乗ろうとして、また、すこし手間どった。


 范鴻は、だまって、鐙をおさえた。


 賈牧は、礼をいわなかった。范鴻も、何もいわなかった。


 范鴻が賈牧の鐙をおさえたのは、これが最初であった。この先、何度おさえることになるのか、むろん、このとき、ふたりのどちらも知らない。

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