第5話 名を呼ぶ
蘇謙の席が、空いていた。
建徳十五年の秋、賈牧への恩賞が定まってから、十日ほどのちのことである。王都・泉陽の宮の一室に、幾人かの重臣が集められた。議は、汪野で死んだ総大将の跡目であった。
上座に近いその席には、誰も座ろうとしなかった。二十年、澗の軍を背負ってきた男の座である。窓から入る秋の陽が、空いた敷物の上に、四角く落ちていた。
重臣たちの目は、ときおり、末席へ流れた。
そこに、賈牧がいる。右翼の丘から岱の横腹を突き、崩れかけた澗軍を救った二十歳の若者である。王都の辻では、すでにこの若者の名が、はやり歌のように口にのぼっていた。
――跡目は、あの男でよいではないか。
口に出す者はいない。だが席の誰もが、それを考えていた。
「異存のある者は、この場で申せ」
昭安王の声に、手をついた者がいた。
史連である。
齢は六十を越えている。痩せて、背がいくらか丸い。蘇謙とは若いころから轡をならべてきた老将で、戦では派手なことを何ひとつしない。そのかわり、この男の受けもった陣が崩れたという話を、澗の者は聞いたことがなかった。
「畏れながら。蘇謙殿の跡目、それがしにお任せいただきたく存じます」
席が、わずかにざわめいた。
「史連よ」
昭安は、困ったような顔をした。
「そなたは、歳も歳。此度の功は若い賈牧にある、という声も多い」
「その声は、それがしの耳にも届いております」
史連は、頭を垂れたまま続けた。
「なればこそ、申しあげるのです。あの若者は、まだ二十。総大将の重さを、いま背負わせるには、早うございます。功が人を押しあげるとき、押しあげられた者は、たいてい足もとを見なくなる。それがしのような老骨が、しばし上に蓋をしておくのも、務めのひとつかと」
その声に、妬みの響きはなかった。軽んじる色もない。長く軍にあって、若い者が功に潰れてゆくのを幾度も見てきた者だけが持つ、乾いた慎重さがあるのみであった。
「賈牧よ。そなたに、異存はないか」
賈牧は、深く頭をさげた。
「ございませぬ。それがしはまだ、一隊を率いる術しか知りませぬ。全軍を束ねる術は、いますこし、学ぶ時が要りましょう」
居ならぶ重臣の幾人かが、意外な顔をした。王都がこれほど騒いでいる若者が、座をあっさりと退いたのである。驕りのひとつも見せてくれれば、かえって扱いやすかったものを。そういう顔をした者もいた。
「よかろう。跡目は、史連とする。賈牧には、引きつづき別動の兵を預ける。范鴻の一件も、すでに沙汰したとおりだ」
議は、それで果てた。
王が退いたあと、史連は空いていた席に、ゆっくりと腰をおろした。座ってみて、老将はしばらく動かなかった。敷物はまだ、陽の温みを残していた。
*
宮を出る回廊で、史連が賈牧を呼びとめた。
「先の物言い、心にもないことを申したのではあるまいな」
「いいえ」
賈牧は、まっすぐに答えた。
「儂は、旗の下に立つ者の数よりも、その旗の下で何を守るかのほうが、性に合うております」
史連は、その言葉を胸のうちで転がすように、しばらく黙って歩いた。
「……わしは、おぬしに蓋をすると申したのだぞ」
「蓋のある器のほうが、中のものは、こぼれませぬ」
老将は足をとめ、若者の顔を見た。それから、かすかに口の端をゆるめた。
「口の減らぬ男じゃ」
それきり、史連は先に立って歩いた。この若者が、いずれ自分の想像を超えたところへ行くであろうことを、老将は、うっすらと感じとっていたのかもしれない。
*
その秋の末、別動隊の再編がおこなわれた。
賈牧に預けられた兵は、およそ千五百。汪野で戦った者が大半だが、傷や病で抜けた穴は、新しい兵で埋められた。王都の北の調練場に、その千五百が、霜のおりた土の上に並んでいる。
楊烈は、名簿をかかえて、賈牧の斜めうしろに立っていた。
名簿をつくるのは、副将の役目である。兵の数と顔を頭にたたきこむのが、隊の将校のなかでいちばん場数を踏んだ、この古参の矜持でもあった。
賈牧は、列の前をゆっくりと歩いた。
観兵の将は、ふつう、列の端から端を一度見わたして終わる。賈牧は、そうしなかった。一人の前に立ち、顔を見る。つぎの一人の前に立つ。ときおり、名を呼んだ。
「陳仙」
「は」
「脚は、もうよいのか」
「は。おかげさまで」
楊烈は、おや、と思った。
汪野で脚に矢を受けた古参である。たしかに、この列にいる。
〈前もって、名簿を覗いたか〉
将が兵の心をつかむために使う、ありふれた手である。そう考えて、楊烈はすこし鼻白んだ。
だが賈牧は、つぎの兵の前でも、そのつぎの兵の前でも、名を呼んだ。ひとりも、まちがえなかった。ある者には「妹御は、嫁いだか」と問い、ある者には「その傷は、膿んではおらぬか」と問うた。
楊烈は名簿をひらいたまま、いつしか列と照らしあわせていた。
三百人をすぎたあたりで、照らしあわせるのをやめた。
列のうしろのほうに、新しい兵がいた。
十七、八であろう。この秋に徴された農家の子らしい。名簿の末に、墨のまだ新しい字で記されている。楊烈が今朝がた、ようやく書き終えたばかりの名であった。
賈牧は、その前で足をとめた。
「名は」
若者は口をひらいた。だが、声が出ない。千五百の目が自分の背に集まっているのを、感じているのであろう。喉が、からからに鳴った。
楊烈は、助け舟を出そうとした。賈牧が、目で、それを止めた。
待った。
ひと呼吸。ふた呼吸。
「……稔、と、もうします」
「稔」
賈牧は、その名を一度、口のなかで転がした。
「どこの者だ」
「汪野の、北のほうの」
「そうか」
それだけいって、賈牧は歩きだした。
若者は、しばらく、棒のように立っていた。
*
昼の休みに、呉石という伍長が、楊烈のもとへ来た。
四十を過ぎた男で、白髪まじりの頭に、赤茶けた鉢巻をしている。口のきき方に、遠慮というものがない。
「楊烈どの。あの若い将軍は、何者じゃ」
「何がだ」
「おれの名まで、呼びおった。倅の歳まで、知っておった」
「覚えがよいのだろう」
「覚えがよい、ですむことかい。千五百じゃぞ」
呉石は、鼻を鳴らした。
「ありがたい話じゃが、薄気味悪うもある」
そこへ、賈牧が通りかかった。呉石は悪びれもせず、その前に立った。
「将軍様。なぜ、兵の名なんぞ、覚えられる」
「覚えねば、呼べぬ」
「呼んで、どうなさる」
「呼ぶ」
それだけであった。
呉石は顔をしかめた。答えになっておらぬ、と言いたげであったが、賈牧の顔に、はぐらかす色はなかった。当たり前のことを述べている顔であった。呉石は首をひねりながら、去っていった。
*
その夜、楊烈は、兵舎の裏に灯を見た。
小さな灯である。賈牧が、その下にひとりで座っていた。膝の上に、一枚の板がある。墨で、名がずらりと書かれていた。
ひと目で、楊烈にはそれが何の名か、わかった。
汪野で、別動隊が失った者の名である。
賈牧は、板を見ていなかった。目は、闇のほうへむけられている。そのくちびるが、わずかに動いていた。ひとつ。また、ひとつ。声にはならない。名を、ひとり、ひとり、口のなかで数えているのであった。
昼の名簿は、生きている者の名であった。この板は、そうではない。この若い将は、昼には生きている者の名を呼び、夜には死んだ者の名を数えている。
楊烈は、声をかけずに立ち去ろうとした。
足もとで、枯れ草が鳴った。
賈牧が、顔をあげた。
「楊烈どの」
「……邪魔をいたした」
「いえ」
楊烈は、すこし迷ってから、問うた。
「何のために、覚えておられる」
「何のためでも、ありませぬ」
「死んだ者は、聞こえませぬぞ」
「存じております」
賈牧は、静かにいった。
「聞こえぬからというて、数えぬわけにも、ゆかぬのです」
楊烈は、息をついた。
首級は、逃げぬ。汪野の畑で、この若い将はそういった。首級の数より先に、百姓の麦を起こした男である。この男の頭のなかでは、数えるものの順序が、ふつうの将とは、すこし、ちがうらしい。
「風邪を、召されるな」
それだけいって、楊烈は背をむけた。
*
翌朝、調練場の隅で、稔が槍を磨いていた。
賈牧が、その傍らを通りすぎた。
「稔」
若者は、はっと顔をあげた。
「は、はい」
「槍の穂が、曇っておる」
賈牧は、それだけで行ってしまった。若者はしばらくその背を見送り、それから、あわてて穂をこすった。耳の先が、赤かった。
名を呼ばれた。それだけのことである。それだけのことで、あの若者は、昨日より、すこし背筋をのばしている。
楊烈は、遠くからそれを見ていた。見ているうちに、自分がこの若い将の下にいることを、もう、さほど不服に思っていないことに気づいた。
それから、ひと月あまりが過ぎた。
調練場の土は、朝ごとに固く凍るようになった。兵たちは賈牧に名を呼ばれることに慣れ、稔の槍の穂は、もう曇っていなかった。
年の暮れの、ある夕方である。楊烈は名簿をかかえて、賈牧の幕舎をたずねた。
「千五百。洩れも、欠けもござらぬ」
賈牧は、名簿を受けとって黙って繰った。終わりまで繰って、指が止まった。
いちばん末の、さらにその下に、一行だけ、墨の色のちがう名がある。楊烈が書いたものではない。秋のはじめ、王の沙汰とともに、宮から書き添えられてきた名であった。
「……来ぬか」
「来ておりませぬ」
楊烈は、短く答えた。
「秋のはじめに沙汰が出て、もう暮れでござる。調練にも、名簿のあらためにも、一度として顔を見せませぬ」
賈牧は、その一行を見つめていた。
楊烈は、すこし言いよどんでから、つづけた。
「亡命将軍の倅でござる。馬の腕は、王都で並ぶ者がないと聞く。ただ、どの隊にも長くは居つかぬ。市のはずれに寝起きして、酒亭の通りで、隊付きの兵とたびたび揉めておるとか」
楊烈は、言葉を選んだ。
「将軍。恩賞を、わざわざ、あのような者に――」
賈牧は、答えなかった。
名簿の上に、指を置いていた。千五百の名を、この若い将はすでに覚えている。陳仙も、呉石も、稔も、とうに呼んだ。
ただ、この一行だけは、まだ一度も呼んでいない。
呼ぼうにも、呼ぶ相手が、ここにいないのである。
「覚えねば、呼べぬ」
賈牧は、ひとりごとのようにいった。呉石に返したのと、同じ言葉であった。
「……だが、おらねば、呼べぬな」
名簿を閉じると、賈牧は立ちあがり、くたびれた外套をはおった。
幕舎の外は、日がかたむきかけていた。北風が、調練場の土埃を、市のある南のほうへ運んでゆく。
楊烈は、その背を見て、この若い将が何を決めたのかを悟った。止めようとして、やめた。止めて聞く男でないことは、この秋のあいだに、よくわかっていた。
閉じた名簿のいちばん末に、まだ一度も呼ばれていない名が、ひとつ残っていた。
范鴻。




