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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第1章 第一次汪野の戦い

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第4話 玉座の余白

汪野《おうや》の報せが王都・泉陽《せんよう》に届いたのは、戦から三日のちのことであった。


 勝った。だが、大勝ではない。


 総大将の蘇謙《そけん》を失っての、辛い勝ちである。王都は、勝ちの喜びと重臣を失った動揺とが入りまじって、どちらの顔をすればよいのか決めかねているような、妙な空気につつまれた。


 昭安王《しょうあんおう》は、玉座の間で戦の子細を聞き、しばらく口をきかなかった。


 蘇謙は、父の代から仕えてきた、もっとも頼みにした臣であった。その死を悼む間もなく、王は論功を定めねばならない。王とは、そういう役目である。


「蘇謙の跡目は、追って沙汰する。して――」


 王は、顔をあげた。


「右翼で岱《たい》の列を崩し、わが軍を救ったという者は、何者か」


「賈牧《かぼく》と申す者にございます。齢はまだ二十。此度の軍議に連なることも、本来なら許されぬ身分でございましたが……」


 昭安は、その名を初めて聞いた。


   *


 召された賈牧は、玉座の前に膝をつき、深く頭を下げた。


 驕りもなければ、卑屈もない。求められた礼を、ただ淡々と尽くしている。それだけの所作であった。


 昭安は、すこし意外に思った。辺境の野で岱を退けた男と聞いて、もっと猛々しい者を思いえがいていた。目の前にいるのは、武官の装束がまだ身に添わぬ、線の細い若者である。


「此度の働き、大儀であった。褒美に、何を望む。爵位か、領地か」


 賈牧は、顔をあげた。


「畏れながら、それがしが望むものは、そのいずれでもございませぬ」


 居並ぶ重臣のあいだに、かすかなざわめきが走った。


「では、何を望む」


「一人の人物を、それがしの下に賜りとう存じます」


「人物、とな」


「はい。范鴻《はんこう》と申す者にございます」


 玉座の間の空気が、目に見えて変わった。


 重臣たちが顔を見あわせる。眉をひそめる者もいた。


 范鴻。


 その父・范厳《はんげん》は、かつて澗《かん》の将軍であった。十年ほど前、王家と確執を起こし、国を捨てて、よその小国へ走った男である。その小国も、いまはもう、ない。


 残された子の范鴻は、そのとき十二であった。澗にとどまり、いまは二十二になる。とどまったが、国を捨てた将軍の子として、いつも疑いの目を向けられてきた。騎兵を扱わせれば、若くしてすでに並ぶ者がないと聞く。それでいて、父の一件があるがゆえに、要職からは固く遠ざけられてきた男であった。


「賈牧よ。范鴻がいかなる者か、承知の上での申し出か」


 昭安の声は、慎重であった。


「承知しております」


 賈牧は、ひるまなかった。


「父の罪は、父のもの。范鴻自身の腕と忠とは、また別のものと心得ます。それがしは此度の戦で、騎兵の使いかた一つで戦の流れが大きく変わることを、この身で知りました。あの者ほど騎兵を御する者を、ほかに存じませぬ」


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 昭安は、あらためて若者を見た。並みならぬ功を立てながら、爵位も領地も求めず、国のなかで疎まれた男ひとりを望む。その望みの異様さが、この若者の器を、かえって測りかねさせた。


「……よかろう」


 やがて、王はうなずいた。


「范鴻を、賈牧の指揮の下に置く。扱いは、そなたに任せる」


   *


 論功の場が果てたのち、昭安は賈牧ひとりをその場に留めた。


 重臣たちが退出し、玉座の間には二人だけが残る形になった。窓のそばに宦官がひとり控えていたが、それを数に入れる者はいない。


 高い窓から、夏の終わりの光が斜めにさしていた。石の床に、格子の影が長くのびている。


「賈牧よ」


 王の声は、さきほどの公の場のものとは、わずかに調子が変わっていた。


「爵位も領地も望まず、ただ人ひとりを望む。それだけの功を立てながら、そなたは、欲というものが薄いようだな」


「畏れ入ります」


「褒めておるのではない」


 昭安は、すこし間をおいた。


「欲のない者は、扱いが難しい。土地や地位で報いることができぬ。何を与えれば満ちるのか、こちらには見えぬ」


 賈牧は、答えなかった。


 深く頭を垂れる、そのわずか前――視線が玉座の脇の窓へ流れたのを、昭安は見た。窓のそばに控えた宦官の顔の上を、その目は止まらずに過ぎて、格子の向こうへ抜けた。


 窓の向こうは、戦のあった汪野の方角である。


 昭安には、それが何を意味するのか、まだわからなかった。


 王は、目の前の若者を見なおした。


 歳若く、体も細い。声を荒げることもなく、驕った色も見せない。それでいて、蘇謙という歴戦の将の確信を、たった一日の戦でくつがえしてみせた。


 凡庸な将なら、地の利を読みちがえた総大将を責めるか、あるいは己の手柄を言いたてるだろう。この若者は、そのどちらもしなかった。ただ、次に何をすべきかだけを、見ているようであった。


〈この者は、いずれ王家にとって、大きな力にもなり、大きな翳りにもなろう〉


 嫉妬ではなかった。警戒とも、すこしちがう。凡庸な己をもてあます王が、抜きんでた臣を前にしたときに覚える、心細さに近いものであった。


「下がってよい。追って沙汰する」


 賈牧は一礼し、玉座の間を辞した。


 その背を見送りながら、昭安は思った。


 あの若者は、目の前の戦のことしか語らない。だがその頭のなかでは、もっと先の、この国の行く末そのものを見ているのではないか。


 そういう男を、王家はどう扱えばよいのか。


 昭安には、まだ答えが見えなかった。


 この一部始終を、窓のそばで聞いていた者がいる。


 王の身のまわりの世話をする宦官の一人で、名を鄭全《ていぜん》という。小柄で、影の薄い男であった。


 鄭全は、王の口にした「欲のない者は扱いが難しい」という一句を、誰にも気どられぬよう、胸のうちで静かに繰りかえしていた。


 袖口を、指でしきりにこすっていた。そのことに気づいた者は、いない。


   *


 同じころ、汪野の北。


 国境の城に退いた岱の陣中で、岳崇《がくすう》がひとり、地図をにらんでいた。


「たかが辺境の小国を相手に、この体たらくか」


 総大将を討ちとりながら、勝ちきれなかった。そのことが、歴戦の武人の矜持を深く傷つけていた。


 だがそれ以上に胸にわだかまっていたのは、あの左翼の崩れが、決して偶然ではなかった、という確信である。


 蘇謙が落ちたあと、澗の本隊は浮き足だっていた。あと一押しで、崩れたはずであった。その一押しの寸前に、こちらの左翼と中央の継ぎ目へ、丘の上から騎馬が駆けおりてきた。早くもなく、遅くもなかった。


「賈牧、と申したな」


 捕らえた澗の兵の口から、その名を聞いていた。


「あの若造が、すべてを読んでおったのか……」


 威力偵察にすぎぬ戦である。だが澗という国を侮っていたことは、もはや否定しようがない。


 岳崇は地図の上の汪野に指をおいたまま、長く動かなかった。いずれ、もう一度あの野に立つことになる。その予感が、はっきりと兆していた。

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