第3話 麦を起こす
卓衡の顔から、血の気がひいた。手が、腰の刀にのびかけた。
賈牧のうしろで、楊烈が、半歩、前へ出た。が、そこで足をとめた。
〈わしも、言うた〉
楊烈は、丘の上の自分を思いだしていた。いまです、将軍、いまを措いては――。あのとき、この若い将は、まだだ、と答えた。
まだだ、と言った男が正しかったことを、楊烈はもう知っている。知ってはいるが、目の前の男にそれを説く言葉を、楊烈は持っていなかった。
賈牧は、立ちあがらなかった。
膝をついたまま、蘇謙の顔に、深く頭をさげた。それから卓衡にむかって、同じだけ頭をさげた。
それきりであった。言いわけは、ひとこともなかった。
卓衡は、刀の柄をにぎったまま、しばらく立ちつくしていた。やがて、その手がだらりと落ちた。
「……殿は、おぬしの言うことを、聞かなんだ」
ほとんど、ひとりごとであった。
「軍議で。雨が少ない、と。おぬしは、言うた」
卓衡は背をむけた。肩が、ふるえていた。
賈牧は、それを見送った。
見送ってから、もう一度、蘇謙の顔を見た。
前の日の、丘へ上る道を思いだした。お主の父に命を拾われた、と、この人は言った。右翼を、頼むぞ、と。
賈牧は、ようやく立った。
本陣を出るとき、楊烈は賈牧の横顔をうかがった。何の色も、なかった。ただ、唇がかたく結ばれていた。
*
汪野には、夏の西日がななめに差していた。
野は、静かではなかった。うめく声がある。馬のいななきがある。岱の土煙はとうに北の地平に溶けて、野の上には、鴉が低く舞っていた。
丘の麓の麦畑は、無残であった。
別動隊が駆けおりた道すじが、そのまま帯のように畑を裂いている。踏みしだかれた畝、蹄にえぐられた土。青い穂が、ことごとく同じ向きに寝ていた。
畦の際に、岑がしゃがみこんでいた。
倒れた麦を一本手にとって、それを見ている。賈牧が近づくと、あわてて頭をさげようとした。
「よい。そのままで」
賈牧は、自分も畦にしゃがんだ。岑と同じ高さで、畑を見た。
「勝ったと、聞きましたが」
岑の声に、抑揚はなかった。恨み言でも、追従でもない。
「勝った。だが、お主の畑を守ったわけではない」
岑は、すこし驚いたように、この若い将の顔を見た。
「……将軍様は、変わったことを仰る」
「よく言われる」
賈牧は手をのばして、寝ている麦の一本をつまんだ。茎を、指先で根もとからたどる。折れてはいなかった。曲がっているだけである。つぎの一本もたどった。それは、節のところで折れていた。そのつぎは、折れていなかった。
「楊烈どの」
賈牧は、立ちあがった。
「手のあいている者を、集めてくだされ。百でよい」
「何をなさる」
「麦を起こす」
楊烈は、耳をうたがった。
「将軍。首級の検分が、まだでござる。死んだ者の員数も、まだ」
「必要なことは、進めてくだされ。手のあいた者だけでよい」
賈牧は、畑を見たまま、言った。
「麦は、今日起こさねば、枯れる」
楊烈は口をひらきかけて、とじた。本陣で言葉を持たなかったのと、同じであった。
四半刻ののち、百人ほどの兵が畦にならんだ。
何をさせられるのかと、だれもが怪訝な顔をしている。賈牧は自分で畑に入り、腰をかがめて、一株を手にとってみせた。
「折れておらぬものだけを、起こせ。根もとに土を寄せて、立たせる。折れたものは、そのままでよい。踏むな。畝の間を歩け」
兵たちは、顔を見あわせた。槍を置き、具足のまま畑におりた。さっきまで岱の兵を突いていた手が、青い麦を、ぎこちなく起こしはじめた。
岑は、畦に立ちつくしていた。
「……将軍様」
「うむ」
「なぜ、そのようなことを、ご存じで」
踏まれた麦も、折れてさえいなければ、数日のうちに節から首をもたげる。だが土に寝たまま日を浴びれば、穂は蒸れて腐る。この土地の年寄りなら知っている。だが、戦をしにきた将が知っていることではない。
賈牧は、それには答えなかった。
「来年、また蒔くのか」
「蒔きますとも。ここより他に、蒔く場所もございませんので」
「そうか」
岑は、しばらく賈牧の顔を見ていた。それから、ものも言わずに畑へおり、兵たちのあいだにまじって、麦を起こしはじめた。
手つきが、兵たちとはまるでちがった。一株を起こすのに、ひと息もかからない。近くの兵が、それを見て、見よう見まねで手を動かした。
*
西日が、汪野の果てに沈みかけていた。
楊烈は畦に立って、畑を見ていた。
裂かれた帯のような道すじの両側で、麦がまばらに立っている。全部ではない。半分にも、とどくまい。それでも、さっきまで同じ向きに寝ていた畑に、穂の影がぽつぽつと戻っていた。
兵たちが、腰をのばして汗をぬぐっている。だれかが何か冗談を言ったらしく、小さな笑い声がおこった。この日はじめて聞く、笑い声であった。
賈牧は、畑のなかほどにいた。具足の膝が、土で黒くなっている。
楊烈は、本陣でのことを思った。言いわけを、ひとこともしなかった男である。蘇謙の亡骸に頭をさげ、卓衡に頭をさげ、そのあとでこの畑に来て、麦を起こしている。
〈この若者は、何を勘定しておるのか〉
楊烈には、わからなかった。
首級の数ではない。それだけは、わかった。
「将軍。日が暮れます」
賈牧は、腰をのばした。泥のついた手を、しばらく見ていた。
それから、北を見た。岱の土煙が消えていった方角である。夕闇が、もうそこまで降りてきていた。
「戻ろう」
賈牧は、畦にあがった。
岑が、畑のなかから頭をさげた。
こんどは、しっかりと、深くさげた。




