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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第1章 第一次汪野の戦い

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第3話 麦を起こす

卓衡《たくこう》の顔から、血の気がひいた。手が、腰の刀にのびかけた。


 賈牧《かぼく》のうしろで、楊烈《ようれつ》が、半歩、前へ出た。が、そこで足をとめた。


〈わしも、言うた〉


 楊烈は、丘の上の自分を思いだしていた。いまです、将軍、いまを措いては――。あのとき、この若い将は、まだだ、と答えた。


 まだだ、と言った男が正しかったことを、楊烈はもう知っている。知ってはいるが、目の前の男にそれを説く言葉を、楊烈は持っていなかった。


 賈牧は、立ちあがらなかった。


 膝をついたまま、蘇謙《そけん》の顔に、深く頭をさげた。それから卓衡にむかって、同じだけ頭をさげた。


 それきりであった。言いわけは、ひとこともなかった。


 卓衡は、刀の柄をにぎったまま、しばらく立ちつくしていた。やがて、その手がだらりと落ちた。


「……殿は、おぬしの言うことを、聞かなんだ」


 ほとんど、ひとりごとであった。


「軍議で。雨が少ない、と。おぬしは、言うた」


 卓衡は背をむけた。肩が、ふるえていた。


 賈牧は、それを見送った。


 見送ってから、もう一度、蘇謙の顔を見た。


 前の日の、丘へ上る道を思いだした。お主の父に命を拾われた、と、この人は言った。右翼を、頼むぞ、と。


 賈牧は、ようやく立った。


 本陣を出るとき、楊烈は賈牧の横顔をうかがった。何の色も、なかった。ただ、唇がかたく結ばれていた。


   *


 汪野《おうや》には、夏の西日がななめに差していた。


 野は、静かではなかった。うめく声がある。馬のいななきがある。岱《たい》の土煙はとうに北の地平に溶けて、野の上には、鴉が低く舞っていた。


 丘の麓の麦畑は、無残であった。


 別動隊が駆けおりた道すじが、そのまま帯のように畑を裂いている。踏みしだかれた畝、蹄にえぐられた土。青い穂が、ことごとく同じ向きに寝ていた。


 畦の際に、岑《しん》がしゃがみこんでいた。


 倒れた麦を一本手にとって、それを見ている。賈牧が近づくと、あわてて頭をさげようとした。


「よい。そのままで」


 賈牧は、自分も畦にしゃがんだ。岑と同じ高さで、畑を見た。


「勝ったと、聞きましたが」


 岑の声に、抑揚はなかった。恨み言でも、追従でもない。


「勝った。だが、お主の畑を守ったわけではない」


 岑は、すこし驚いたように、この若い将の顔を見た。


「……将軍様は、変わったことを仰る」


「よく言われる」


 賈牧は手をのばして、寝ている麦の一本をつまんだ。茎を、指先で根もとからたどる。折れてはいなかった。曲がっているだけである。つぎの一本もたどった。それは、節のところで折れていた。そのつぎは、折れていなかった。


「楊烈どの」


 賈牧は、立ちあがった。


「手のあいている者を、集めてくだされ。百でよい」


「何をなさる」


「麦を起こす」


 楊烈は、耳をうたがった。


「将軍。首級の検分が、まだでござる。死んだ者の員数も、まだ」


「必要なことは、進めてくだされ。手のあいた者だけでよい」


 賈牧は、畑を見たまま、言った。


「麦は、今日起こさねば、枯れる」


 楊烈は口をひらきかけて、とじた。本陣で言葉を持たなかったのと、同じであった。


 四半刻ののち、百人ほどの兵が畦にならんだ。


 何をさせられるのかと、だれもが怪訝な顔をしている。賈牧は自分で畑に入り、腰をかがめて、一株を手にとってみせた。


「折れておらぬものだけを、起こせ。根もとに土を寄せて、立たせる。折れたものは、そのままでよい。踏むな。畝の間を歩け」


 兵たちは、顔を見あわせた。槍を置き、具足のまま畑におりた。さっきまで岱の兵を突いていた手が、青い麦を、ぎこちなく起こしはじめた。


 岑は、畦に立ちつくしていた。


「……将軍様」


「うむ」


「なぜ、そのようなことを、ご存じで」


 踏まれた麦も、折れてさえいなければ、数日のうちに節から首をもたげる。だが土に寝たまま日を浴びれば、穂は蒸れて腐る。この土地の年寄りなら知っている。だが、戦をしにきた将が知っていることではない。


 賈牧は、それには答えなかった。


「来年、また蒔くのか」


「蒔きますとも。ここより他に、蒔く場所もございませんので」


「そうか」


 岑は、しばらく賈牧の顔を見ていた。それから、ものも言わずに畑へおり、兵たちのあいだにまじって、麦を起こしはじめた。


 手つきが、兵たちとはまるでちがった。一株を起こすのに、ひと息もかからない。近くの兵が、それを見て、見よう見まねで手を動かした。


   *


 西日が、汪野の果てに沈みかけていた。


 楊烈は畦に立って、畑を見ていた。


 裂かれた帯のような道すじの両側で、麦がまばらに立っている。全部ではない。半分にも、とどくまい。それでも、さっきまで同じ向きに寝ていた畑に、穂の影がぽつぽつと戻っていた。


 兵たちが、腰をのばして汗をぬぐっている。だれかが何か冗談を言ったらしく、小さな笑い声がおこった。この日はじめて聞く、笑い声であった。


 賈牧は、畑のなかほどにいた。具足の膝が、土で黒くなっている。


楊烈は、本陣でのことを思った。言いわけを、ひとこともしなかった男である。蘇謙の亡骸に頭をさげ、卓衡に頭をさげ、そのあとでこの畑に来て、麦を起こしている。


〈この若者は、何を勘定しておるのか〉


 楊烈には、わからなかった。


 首級の数ではない。それだけは、わかった。


「将軍。日が暮れます」


 賈牧は、腰をのばした。泥のついた手を、しばらく見ていた。


 それから、北を見た。岱の土煙が消えていった方角である。夕闇が、もうそこまで降りてきていた。


「戻ろう」


 賈牧は、畦にあがった。


 岑が、畑のなかから頭をさげた。


 こんどは、しっかりと、深くさげた。

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