第2話 乾いた大地と崩れる継ぎ目
陽が中天にかかるころ、北の地平に、土煙があがった。
はじめは、細い筋であった。それが見るまに横へひろがり、野の端から端までを、うすい黄色の幕でおおった。幕のなかから、やがて、人の列があらわれた。
岱の歩兵である。
幾重にも、幾重にも、列がつづいていた。大楯を前にならべ、そのうしろに長槍が林のように立っている。旗は多くない。太鼓も、低く、間をおいて鳴るだけである。急ぐ気配が、どこにもなかった。
岳崇の戦であった。奇をてらわず、厚い陣形をくずさぬまま、じりじりと間合いを詰めてくる。数で澗をはるかに上まわる岱にとって、それで十分なのである。
*
蘇謙は、本陣の最前に馬を立てていた。
旗本の将たちは、いますこし後ろへ、と幾度も言った。蘇謙は、そのたびに首をふった。
「将が退けば、兵はそれ以上に退く」
二十年、この構えで汪野を守ってきた。泥が敵の足を止め、止まった敵を味方の弓が叩く。それが、蘇謙の描いた絵であった。
だが、地は乾いていた。
夕立は、ついに来なかった。岱の歩兵の足もとから、白い土埃が立っている。泥に沈むはずの足が、乾いた土を踏んで、まっすぐに来る。
蘇謙が見積もった速さを、あきらかに上まわっていた。
本陣の将たちのあいだに、かすかな戸惑いが走った。誰も口にはしない。口にしないまま、互いの顔を盗み見た。
「弓、かまえ」
蘇謙の声で、澗の弓兵がいっせいに弦を引きしぼった。
だが、そのときにはもう、岱もまた、射とどく距離に入っていた。泥のなかで足踏みしているはずの敵が、もう、そこにいた。
矢が、交わった。
澗の矢は、岱の前列をなぎ倒した。返す岱の矢もまた、思いのほか正確に、思いのほか近くから飛んできた。
一本の矢が、陣頭の蘇謙の胸を貫いた。
将旗の下に、束の間、音が消えた。
蘇謙は、馬の上で、自分の胸を見おろしたようであった。何かを言おうとした。言わずに、ゆっくりと鞍から傾いた。
悲鳴に似たどよめきが、本陣を駆けぬけた。
総大将が、落ちた。
本陣の統制は、またたくまに崩れた。誰の命を待てばよいのかわからぬ兵が、前へ出るべきか退くべきかも判じかねて、列の端から浮き足だちはじめる。
岱は、その機を見のがさなかった。太鼓の拍子が、ひとつ速くなった。厚い歩兵の列が、勢いを増して押しよせてくる。
このまま崩れれば、澗は総崩れになる。
それは、誰の目にも明らかであった。
*
右翼の丘の上で、賈牧は、ただ敵の列を見つめていた。
かたわらで、楊烈が幾度となく、喉まで出かかった言葉を飲みこんでいた。
岱の先鋒が動きだしてから、もうかなりの時がたっている。岱の列は、丘の前を斜めに横ぎって、本陣へ向かっていた。こちらに横腹を見せている。
〈いま突けば、届く〉
楊烈は、そう思った。長い戦の勘が、そう言っていた。
「将軍」
とうとう、楊烈は口をひらいた。
「岱の歩兵、すでにこちらの射程に入っております。いまなら、横腹を突けまする」
賈牧は、答えなかった。
目は、岱の列の、中軍と左翼の継ぎ目のあたりに据えられたまま、動かない。
「もうすこしだ」
「もうすこし、とは」
「岱の足は、思うたより速い。地が乾いておるゆえだ。蘇謙様の見立てより、間合いの詰まりが早い」
声は、焦りとは無縁であった。
「いま動けば、岱はまだ列を保っておる。数の利が、そのまま生きる。叩いても傷にはなろうが、崩れはせぬ」
楊烈には、その言葉の意味が測りかねた。目の前では、もう矢が飛びかっている。戦は始まっている。それを、この若い指揮官は、まだ早い、と言う。
本陣のほうで、声にならぬどよめきが起こった。
遠目にも、将旗が大きく揺らいだのが見えた。
「――蘇謙様が」
楊烈の声が、かすれた。
丘の上からでは、何が起きたのかを確かめる術はない。だが、旗の乱れと、本陣を駆けぬける動揺の波が、それが何を意味するかを語っていた。
「いまです、将軍。本陣が崩れております。いまを措いては――」
楊烈は、思わず馬を進めかけた。
賈牧は、まだ動かなかった。
「まだだ」
「まだ、と仰るか。この期におよんで――」
「崩れるのは、これからだ」
賈牧は、そこではじめて、楊烈を見た。
苛立ちも、昂りもない目であった。ただ、静かだった。楊烈は、その目にぶつかって、言葉が喉で止まった。
「いま、本陣は浮き足だっただけだ。岱は、前をふさがれ、後ろに勢いをかかえたまま、なお進んでおる。この押しがつづけば、岱の列のどこかに、歩みの乱れる場所が生まれる。前が詰まり、後ろが押す。そういう場所が」
「そのような場所が、どこに」
「そこだ」
賈牧が指さしたのは、岱の左翼と中央とが接する、一見なんの変哲もない一帯であった。
「昨日から、ずっと見ておった。あの継ぎ目の旗だけが、ほかより半拍おくれて動く。指図が、二重になっておるのだ。進めの号令が、左翼と中央とで、わずかにずれる。本陣が崩れたと伝われば、そのずれは、かならず大きくなる」
楊烈は、言葉を失った。
行軍の道すがら、この若者がずっと北の地平を見ていたことを、楊烈は思いだした。
当たるかどうか、確かめる術はない。だがこの若者の口ぶりには、賭けをしている者の響きが、どこにもなかった。
そして、そのときが来た。
岱の中央が、澗の本陣の崩れを見て、わずかに足をゆるめた。勝ちを確かめるような、ほんのひと呼吸の間であった。
だが左翼は、なお勢いを保ったまま進みつづけた。
ふたつの列のあいだに、目に見えるほどの歪みが生まれた。押す者と止まる者とが、そこで、ぶつかった。
「――いまだ」
賈牧の声は、大きくはなかった。
だがそれを聞いた楊烈の背筋に、得体の知れぬ震えが走った。
「全軍、丘を駆けおりよ。狙うは岱の左翼の付け根、ただ一点」
*
別動隊が、動いた。
主力は騎馬である。数は少ない。だが、高みから駆けおりる馬の勢いは、地を歩く兵の数倍の重さを持つ。丘の斜面が、蹄の音で鳴った。
楊烈も、抜きはなった刀をふりかざして、そのあとを追った。
千五百の一隊は、歪んだ一点へ、まっすぐに食いこんでいった。
そこで、岱の列は、内側から崩れはじめた。
前をゆく左翼の兵は、まだ進む勢いを止めていない。そこへ、横から、後ろから、不意の衝撃が来た。後続の列は足を止め、あるいは押しかえされて、隣の隊伍へなだれこんだ。密に並んでいたぶん、退くことも進むこともできない。兵が、その場で押しあい、へしあいした。
数の多さは、もはや利ではなかった。枷であった。
「怯むな。敵は寡兵ぞ、押しかえせ」
岱の隊将のひとりが声をはりあげたが、その声は喧騒に呑まれた。狭い継ぎ目に押しこまれた兵には、誰の号令に従えばよいのかを判じる余裕もない。
賈牧は、その混乱の芯へ、なお馬を進めていた。
刀をふるうより、目を配るほうが多い。どこへ兵を差しむければ、崩れがさらにひろがるか。その一点だけを、見さだめつづけている。
別動隊は、寡兵とは思えぬほどよく動いた。一点にとどまって力押しをするのではない。崩れのひろがる先へ、先へと兵を差しむけ、岱がようやく立てなおしかける端から、その芽を摘んでいく。
だが、崩れのなかに、ひとつだけ、崩れぬものがあった。
左翼の後ろの列の、さらに奥である。百か、二百か。古びた楯を外へむけて、輪に組んでいる。輪の縁から槍の穂が隙間なく突きでて、その一隊だけが、まわりの喧騒とは別の拍子で息をしていた。
輪の内で、太鼓がひとつ、短く鳴った。
逃げまどっていた岱の兵が、その音にふりむいた。ひとり、ふたりと、輪の背へ走りこんでいく。輪は、走りこんでくる者を拒まなかった。楯と楯のあいだが、そのたびにひらき、また閉じた。
輪が、ふくらみはじめていた。
楊烈は、それを見て、背が冷えた。長い戦の勘が、あれは芯だ、と言っていた。崩れた兵は、芯をひとつ見つければ、そこへ寄って、また列になる。列になれば、千五百は、またたくまに呑まれる。
「将軍」
楊烈は、馬を寄せた。
「あの輪、いまのうちに囲んで揉みつぶさねば、左翼が立ちなおりまする。手勢を三方から――」
「囲むな」
賈牧は、輪から目をはなさずに言った。
「……は」
「北を、あけよ。輪の背の、北の一方だけを、あけておけ」
楊烈は、耳をうたがった。逃げ道を、敵にくれてやるというのか。
「囲めば、あの者らは、死ぬまで戦う」
賈牧の声は、あいかわらず静かであった。
「死ぬまで戦う兵に、千五百を使いきるわけにはいかぬ。……それに、あの輪へ寄ってくる者たちは、輪を信じて寄ってくるのではない。ほかに行くところがないから、寄ってくる」
賈牧は、そこではじめて、楊烈を見た。
「行くところを、ひとつ、こしらえてやればよい」
楊烈は、しばらく言葉が出なかった。それから手綱を引きしぼり、ふりかえって、どなった。
「東と西から押せ。北へは、ひとりも回るな。北は、あけておけ」
別動隊が、輪の東と西に食いこんだ。南からも押した。北だけが、空いた。
はじめに気づいたのは、輪の背に寄っていた兵たちであった。北に、敵がいない。北へ行けば、生きて帰れる。その思いが、ひとりの足を動かした。ひとりが走りだすと、十人がつづいた。
輪の太鼓が、つづけざまに鳴った。とどまれ、と言っているのであろう。だが、もう誰も聞いていなかった。北へ流れる兵の群れが、輪の背を内から押した。楯の列が、うしろから突きとばされて前へのめった。ひらいては閉じていた楯と楯のあいだが、こんどは、閉じなくなった。
輪は、自分からほどけた。
古参の兵たちは、最後まで槍を立てていた。だがかれらも、背を押す流れに抗しきれず、やがてその流れに呑まれて、北へ消えた。
別動隊は、ほとんど血を流さなかった。
楊烈は、自分でも驚くほど素直に、あの指図に従っていた。
理屈で得心したのではない。ただ、この若い指揮官の言葉には、逆らう隙を与えぬ何かがあった。
〈なんだ、これは〉
北へ遠ざかる土煙を見ながら、楊烈は思った。
まるで、崩れていく列の行く末を、あらかじめ知っているかのようであった。
*
澗の本陣は、蘇謙を失って、なお浮き足だったままであった。
それでも総崩れをまぬかれたのは、岱の押しが、左翼の混乱で鈍り、やがて止まったからである。兵が踏みとどまれたのは、勇気のためではない。敵が、こちらに構うゆとりを失った。それだけのことであった。だがそれが、澗の命脈をつないだ。
後方で、岳崇は伝令の報せを幾度も聞きかえしていた。
「総大将を討ったというに、なぜ崩れぬ。しかも左翼が乱れておると――何が起きておる」
用兵に狂いはなかったはずである。地の乾きを読みちがえたのは誤算だった。だがそれを補ってあまりある数で押しきる算段は、崩れようのないものだった。
その堅い陣が、いま、寡兵の一隊に、内側から食いやぶられつつある。
岳崇が全容をつかみ、立てなおしの号令を発したときには、左翼の乱れは、すでに中央にまで及んでいた。これ以上は、傷をひろげるだけである。
岳崇は、奥歯を噛んだ。
「退け。全軍、退け」
*
陽が西に傾くころ、岱の軍は汪野を離れ、北へ退いていった。
賈牧は、丘の上にもどっていた。
土煙が、北の地平へ遠ざかっていく。その背を、賈牧はただ黙って見おくっていた。勝った、という顔ではなかった。
楊烈は、その横に馬を寄せた。
何かを言うべきだと思った。言葉が見つからなかった。
「本陣へゆく」
賈牧は、それだけ言って、馬首をめぐらせた。
*
本陣は、崩れたままであった。
旗は倒れ、楯は散っている。勝ったと知らされても、勝った顔をしている兵は、ひとりもいなかった。主を失った馬が、手綱を引きずったまま、乾いた土の上をうろうろと歩いている。
蘇謙は、陣幕の陰に筵を敷いて寝かされていた。
胸の矢は、もう抜かれている。具足の胸板に、指が一本はいるほどの穴があいていた。二十年この野で戦ってきた男の顔は、眠っているにしては、ひどく固かった。
賈牧は馬をおり、筵の脇に膝をついた。
背後で、足音がとまった。
「右翼は」
声が、ふるえていた。
「右翼は、何をしておられた」
ふりむくと、旗本の将が立っていた。四十に手のとどく、頬骨の高い男である。具足は血と土で汚れ、兜の緒が片方切れて垂れている。
蘇謙の旗本で、卓衡という。
「岱の歩兵が射程に入ったとき、丘の上の旗は動かなんだ。殿が射られても、まだ動かなんだ。動いたのは、殿が落ちて、しばらくしてからだ」
卓衡の声が、しだいに大きくなった。まわりの兵が、顔をあげた。
「見ておられたのか。殿が射られるのを、丘の上から」
賈牧は、卓衡の目から、目をそらさなかった。
「見ておった」




