第1話 乾いた夏
軍議は、汪野の南のはずれに張られた幕舎で開かれた。
夏であった。乾いた風が幕の裾から吹きこみ、広げた地図の端がめくれるたびに、誰かが小石でそれをおさえた。
「氾濫原の奥に、陣を敷く」
総大将の蘇謙は、地図に目を落とすまでもなく、そう告げた。
体躯は並みである。だがその目には、二十年、岱の軍勢と渡りあってきた者だけが持つ、退くことを知らぬ光がある。
物見の報せは、すでに諸将の耳に入っていた。
岱、およそ一万二千。将は岳崇。
対する澗は、かき集めて七千ほどにすぎない。
その差を埋めるのが、汪野の泥であった。夏になれば雨が地を潤し、氾濫原は膝まで沈む泥濘に変わる。重い楯と長い槍をかついだ岱の歩兵は、そこで足を奪われる。足の止まった兵の群れほど、弓にとってたやすい的はない。――それは澗の将であれば誰もが知る、この地の常識であった。
「異存はないな」
問いというより、確かめるだけの声であった。
居並ぶ諸将のなかに、首を横にふる者はいない。
ただ一人を除いては、誰も。
「今年の夏は、雨が少のうございます」
声をあげたのは、もっとも末の席の若者だった。
賈牧。二十歳。
線の細い体つきで、武官の装束がまだ身に添っていない。将として日も浅く、本来ならばこの席に連なることさえ許されぬ身分である。蘇謙が座を許したのは、彼の父祖が澗に功のあった家柄であったという、ただそれだけの理由による。
「泥を頼みにするには、地はまだ乾いております。岱の歩兵は、我らが思うほど足を取られはしますまい」
幕舎のなかが、わずかにざわめいた。
「家柄で席を得た者が、口だけは一人前よ」
誰かが、聞こえるか聞こえぬかの声で言った。失笑が、二つ三つ、地図の上をころがった。
賈牧は、声のしたほうを見なかった。目は、地図の上の汪野の一点に落ちたままである。氾濫原の窪地――蘇謙が陣を敷くと決めた、まさにその場所であった。
蘇謙は賈牧を一瞥した。侮りの色はない。ただ、取りあうに値しないという色だけが、その目にあった。
「賈牧よ。汪野の地が乾くも湿るも、天の定めることだ。人が測れるものではない」
「されど、この十日ほどの空模様を見れば――」
「十日の空を見て、戦の勝ち負けを語るか」
蘇謙の声に、はじめて険がまじった。
「わしはこの地で、岱の相手をすること二十年になる。汪野の泥がどれほど兵の足を奪うか、この身で知っておる。お主が生まれる前からのことだ」
賈牧は、それ以上を口にしなかった。
口にしたところで覆る流れではないことを、この若者は誰よりもよくわかっていた。
「よかろう。お主にも働き場所をくれてやる」
蘇謙の指が、地図の右のはしをおさえた。本陣からは離れた、目立たぬ丘である。
「別動隊として、右翼を守れ。千五百を預ける。功を立てたくば、そこで立てるがいい」
賈牧は深く頭を下げた。
その面には、不満も、諦めも浮かんでいなかった。ただ、蘇謙にはついに読みとることのできない、静かな色だけがあった。
軍議が果てて幕の外へ出ると、陽はまだ高かった。
幕のわきに、四十がらみの、肩の厚い男が立っていた。日に焼けた顔に、古い刀傷が一筋走っている。
「楊烈と申す。右翼の副将を、命じられ申した」
声に、愛想はなかった。礼は正しいが、その目は、この二十歳の若者がどれほどの者か、黙って値踏みしていた。
「よろしく頼む」
賈牧はそれだけ言い、空を見あげた。
雲がない。夏の空は白く焼け、風は北から乾いて吹いている。
楊烈もつられて空を見たが、そこに何があるのか、わからなかった。
*
澗は、中原の西のはずれの小国である。その北に、この二十年で周りの国々を呑みこんできた岱がある。建徳十五年の夏、岱は澗の北の国境へ兵を出した。南へのばす手の、指の一本ほどの兵である。岱の目に映る澗は、その程度の国であった。
*
軍議の翌朝、澗軍は陣を払い、汪野の奥へ進んだ。
蘇謙は本隊を率い、氾濫原の窪地の縁に、堂々と陣を構えた。旗を高くかかげ、太鼓を打ち鳴らしての布陣である。数で劣る側が、あえて姿を見せつけるような陣立てを選んだのは、蘇謙なりの計算であった。身を縮めるような陣では、味方の士気も、敵の油断も引きだせぬ。
陣を定めるとき、蘇謙は馬をおりて、窪地の土をひとつまみ、指でつぶした。
土は、思ったより軽く崩れた。
蘇謙の眉が、わずかに寄った。だがそれも一瞬のことで、指の土を払うと、西の空を見て言った。
「夕立がひとつ来れば、足りる」
旗本の将たちは、うなずいた。二十年、この人の見立てが外れたことはない。汪野の夏は、いつもそうであった。
賈牧の別動隊は、本隊とは逆に、静かに動いた。旗の数をしぼり、蹄の音を殺して、右翼の丘へ向かう。寡兵ゆえの用心にも見えたが、その念の入れようは、用心の域をこえていた。
楊烈は、馬を並べながら、この若い指揮官の横顔を幾度となくうかがった。
この隊の将校のなかで、戦の場数において賈牧を上まわるのは、楊烈ただ一人である。家柄で座を得た二十歳の若者の下につけられたことに、得心がいっているとは言いがたい。
〈鞍の上の背が、ずいぶん固い〉
楊烈の目には、そう見えた。手綱の持ちかたも、どこかぎこちない。だが、その目だけは、馬の首の先ではなく、ずっと遠くの、北の地平を見ていた。
丘の麓には、青みの残る穂をつけた麦畑がひろがっていた。
畦に、一人の男が立ちつくしている。三十を出たばかりであろう、日に焼けた顔の農夫で、名を岑といった。この氾濫原に、先祖から伝わる小さな畑を持つ者である。陣のために畑を明けわたせと兵に追いたてられ、何も言わず、ただ踏まれてゆく麦を見ていた。異を唱えれば首が飛ぶことを、この土地の民は知っている。
賈牧は馬を止めた。
「道を畦に寄せよ。麦を踏むな」
「将軍、時がございませぬ」
楊烈が言った。
「畦を通れば、麦は半分残る」
岑は礼も言わなかった。迷惑そうな顔のまま、ただ小さく頭を下げた。戦をする者が畑の心配をするなど、この男には、まだ信じられぬことだったのであろう。
楊烈もまた、黙ってそれを見ていた。
〈この若者は、何を惜しんでおるのか〉
麦か、時か、それとも別の何かか。楊烈には、わからなかった。
丘へ上る道の途中で、蘇謙が馬を寄せてきた。本隊の布陣を終え、右翼をあらために来たのである。
「目立たぬ場所だが、構わぬのか」
賈牧は丘の稜線を見上げたまま、短く答えた。
「目立たぬからこそ、良いのです」
蘇謙は、深くは問わなかった。この若者の言葉には、ときおり、意味をもてあますような余白がある。二十年戦場を渡ってきた将として、そうした余白を気に留めぬだけの分別も、あるいは驕りも、蘇謙は持ちあわせていたのかもしれない。
馬首を返しかけて、蘇謙はふと止まった。
「お主の父には、若いころ、一度、命を拾われたことがある」
賈牧が、はじめて蘇謙の顔を見た。
「軍議の席は、その借りじゃ。……右翼を、頼むぞ」
それだけ言うと、蘇謙は本隊へ戻っていった。陽に焼けた背が、旗の林のなかへ消えた。
賈牧はしばらく、その背の消えたあたりを見ていた。
*
その夜、賈牧は一人で丘を降りた。
月は細く、氾濫原は青黒く沈んでいる。賈牧は窪地の縁まで歩き、膝をつき、土をひとつかみ握った。
土は、指のあいだから、さらさらとこぼれた。
湿り気がない。例年のこの時期なら、握れば指の跡が残り、水がにじんだはずの土である。畦には、子どもの指が入るほどのひびが走っていた。
賈牧は立ちあがり、北を見た。岱の陣の篝火が、地平にそって、点々と赤い。
それから西へ目を移した。汪野を東西に走る古い堤と、その向こうを細く光って流れる川、堤の内側に切られた水路の筋が、星の明かりにうすく浮かんでいる。賈牧はそれを、飽かずに目でなぞった。
後年の史書は、この夜の賈牧について多くを語らない。ただ、彼が敵陣の方角を眺めていた時間が、必要以上に長かったという、些細な記録が残るのみである。堤と水路の筋をなぞっていたことも、それが何の役に立つと思ってのことか、当人が語った形跡はない。
丘へ戻ると、楊烈が起きて待っていた。
「どちらへ」
「土を、見てきた」
楊烈は、何かを言いかけてやめた。
賈牧は、握ったままだった手をひらいた。乾いた土が、夜風に散った。
「あすは、泥は、岱の足を取らぬ」
それきり、賈牧は幕に入った。
楊烈は、しばらくその場に立っていた。
足もとの草を踏むと、乾いた音がした。昼に本陣の旗本から、総大将が土をつぶして「夕立がひとつ来れば足りる」と言ったと聞いている。楊烈も、そうだろうと思っていた。二十年、汪野の夏はそうであったし、楊烈自身も、その夏のなかで戦ってきたのである。
だが、西の空には、雲のひとつも見えなかった。
楊烈は、幕のなかの若者の気配をうかがった。灯はすぐに消え、寝息も聞こえない。眠っているのか、目をあけたまま何かを数えているのか、楊烈にはわからなかった。
夜が明けた。
汪野の空には、雲がひとつもなかった。




