第10話 任せる
岱軍が国境を越えた。
その報は、二日のうちに史連の陣へ届いた。号して四万、という。
「号して、か」
賈牧は物見の報告を聞いて、そう言っただけだった。
彼は、四万という数字を信じていなかった。代わりに物見たちには、敵の竈の数を数えさせていた。
兵は、食わねば動けない。食うには、煮炊きをする。野営の竈の数は、そこにいる人間の数を正直に語る。
旗はいくらでも増やせる。声も、いくらでも大きくできる。だが、腹の数だけは、ごまかせない。
戻ってきた物見のひとりは、指先に灰をつけたまま膝をついた。冷えた竈の跡を、一つずつ手で確かめてきたのである。
その数から割り出せば、三万を越えない。
「実数は三万。こちらは一万一千」
賈牧が言った。
「ほぼ三倍じゃな」
史連が言った。老将の声に、動揺はなかった。
物見が持ち帰ったのは、竈の数だけではなかった。国境の市に出入りする商人たちの口から、岱の主将の名と、その評判も、すでに届いていた。
*
その夜、史連の幕に将たちが集まった。
楊烈がいる。歩兵の将が三人。それに、古参の騎兵将校もいた。調練場で、范鴻を「曲芸」とそしった男である。
灯が一つ、地図の上に吊るされていた。将たちの顔は、その灯の下で半分だけ明るかった。
賈牧は、軍師とはいえ、末席に近いところに座っていた。二十三歳。この幕のなかで、もっとも若かった。
「左翼に、騎兵二千を集めます」
賈牧は、地図に指を置いた。
「中央は歩兵八千。右翼は千ばかりを置き、その千に、三千ぶんの旗を持たせます」
幕のなかが静まった。
最初に口を開いたのは、騎兵将校だった。
「騎兵をひとところに寄せるのは、よい。だが、右翼が空では、そこを破られる。三万の敵は、いちばん薄いところをまず突く。それが戦の理であろう」
「そのとおりです」
賈牧は、あっさりとうなずいた。
「ですから、薄くは見せませぬ。旗が多ければ、兵も多いと人は思います」
「見破られたら、どうする」
「見破られませぬ」
「なぜ、わかる」
「敵の主将は、公孫燁という男です。名門の出で、実戦の経験が少ない」
「それだけで、旗を信じると?」
「信じるでしょう」
「なぜ」
「信じたいものが、目の前にあれば、人は信じます」
騎兵将校は、まだ納得しない顔をしていた。
楊烈が、低い声で言った。
「岱の副将は、岳崇どのだそうだ。あの人は疑い深い。旗のからくりに気づくのではないか」
「気づくでしょう」
賈牧は言った。
「ですが、気づいても、主将は聞かぬ。儂は、そう見ています」
根拠は、と訊かれれば、賈牧にも確たる証拠はなかった。
ただ、三年前の汪野で、岳崇という将を見た。有能で、慎重で、そして主将の意に逆らえぬ男だった。
そういう男は、正しいことを、正しい相手に、必ず言う。そして、正しい相手が聞かぬ人物であるときには、正しいままに負ける。
賈牧は、それ以上、口にしなかった。
説明すれば、策は人の口を通して、いつか敵にもれる。もれずとも、口にしたとたん、形が崩れてしまう策がある。
彼は、そのことをよく知っていた。
幕のなかに、いやな沈黙が広がった。
反対とも、賛成ともつかぬ気配である。歩兵の将のひとりが、小さく咳をした。灯の芯が、じじ、と鳴った。
そのとき、史連が初めて口を開いた。
「三年前」
老将は、ゆっくりと言った。
「蘇謙どのが討たれたあと、わしが総大将の座に就いた。あのとき、賈牧どのは、みずから辞した。座りたければ座れた席を、辞した。わしは、それを見ていた」
誰も、何も言わなかった。
「今度は、わしのほうから頼む。総大将の印は、わしが持つ。だが、戦は、おぬしが指せ」
賈牧は、すぐには答えなかった。
「よろしいのですか」
「兵は一万一千。王は、一万五千を許さなかった」
史連は、かすかに笑った。
「足りぬときの戦は、足りぬなりの頭のほうが使える。わしの頭は古い。おぬしの頭のほうが、いまの澗には要る」
それから、幕のなかを見渡した。
「異論のある者は」
異論は出なかった。
出なかったのは、納得したからではない。総大将の顔が、それを許さなかったからである。
「では、任せる」
史連は、そう結んだ。
老将の目が、一瞬だけ賈牧を見て、すぐにそらされた。
負ければ、責めは印を持つ者が負う。老人は、そのことを口にしなかった。
*
軍議が終わったのは、夜更けだった。
賈牧は、左翼の陣へ向かった。
厩のそばの闇のなかで、范鴻が馬の口を撫でていた。腰には戟がある。父の形見の、古い戟である。
「范鴻」
「はっ」
「明朝、岱軍が近づく。お主は、左翼の騎兵の先頭に立つ」
「はい」
「われらは、進むふりをする。進んで、敵のほうへ一度向かう。それから、退く。ただの退却ではない。退くふりだ」
范鴻は、黙って聞いていた。
「退却の合図は、赤の旗を二度振る。旗を見たら、退け。ひたすらに退け」
「追ってきますか」
「追ってくる。必ず、追ってくる者がいる。追ってこぬときは、敵の前まで寄って罵れ。人は、侮られれば追う。そして、先頭を駆けてくる者が、ひとりいるはずだ」
賈牧は、そこでひと呼吸置いた。
「その者だけは、逃がすな。追いつかれる直前に、振り返れ。お主の馬なら、できる」
范鴻は、少し考えるような顔をした。それから、言った。
「それは、曲芸でございましょうか」
賈牧は、一瞬きょとんとした。それから笑った。この男が声を上げて笑うのは、珍しかった。
「曲芸かどうかは、追ってくる敵が決める。そう言ったのを、覚えていたのか」
「はい」
「では、そのとおりにやってみろ」
范鴻は、無言で頭を下げた。
賈牧が去ったあとも、范鴻はしばらく馬のそばを離れなかった。
罵れ、と言われた。
范鴻は、口の重い男である。人を罵ったことなど、生まれてから一度もない。
闇のなかで、馬が鼻を鳴らした。
*
朝が来た。
汪野の北縁に、澗軍が並んだ。左翼に騎兵、中央に歩兵、右翼には、数の多い旗が風にはためいている。旗のうしろに何人の兵がいるのか、遠目にはわからない。
足もとの麦は、穂を重く垂れていた。刈り入れまで、あと幾日もない。
北の地平に、土埃が立った。
岱軍である。
ゆっくりと来る。ひどく、ゆっくりと来る。
数に頼む軍は、急がない。急がずとも勝てると、信じているからである。
賈牧は中央の後ろに立ち、その土埃をじっと見ていた。
「速さは、思ったとおりだ」
そう、つぶやいた。
ただ、ひとところだけ、ちがった。
土埃の左のはし。澗の騎兵の正面にあたるところだけが、ほかより半歩、前へ出ている。
その半歩の先頭に、ひときわ大きな影があった。
賈牧は、何も言わなかった。
その半歩が、この日の汪野のすべてを決めることになる。




