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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第2章 第二次汪野の戦い

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第11話 釣り出し

距離は、しだいに縮まっていった。


平原の戦は、音から始まる。


太鼓の音が北から低く響き、それに歩兵の足並みが重なって、地鳴りのようになる。三万である。ひとつひとつの足は軽くとも、それが三万集まると、大地が呼吸しているように思えた。


賈牧《かぼく》は、中央の後ろにある、土を盛った小さな丘に立っていた。


視線は、敵の左翼に向けられている。澗《かん》から見れば、右翼の正面である。あの旗の林の向こうで、岱《たい》の左翼はどう動くか。


岱の左翼が、足を緩めた。


ほんのわずかだった。しかし、そのわずかを賈牧は見逃さなかった。


旗の数を見て、そこに兵がいると信じたのである。兵がいるなら、まっすぐ突っ込むのは危ない。用心とは、そういう顔をして、足元に現れる。


「よし」


賈牧は、小さく言った。


敵左翼が遅れれば、中央もいくらか鈍る。ところが、澗の左翼騎兵に正対する敵の右翼だけは、違う拍子で動いている。


夜明けに見た半歩は、もう半歩ではなかった。


拍子の違う二つの部分が、ひとつの軍のなかに同居する。その継ぎ目が、もっとも脆い。賈牧が打ちたいのは、そこだった。


ただ、継ぎ目は、いまはまだ点にすぎない。


点を線に広げるために、左翼の騎兵がある。


   *


左翼の先頭で、范鴻《はんこう》は前方を見ていた。


岱の右翼が近づいてくる。その先頭に、ひときわ大きな男がいた。馬が小さく見えるほどの巨漢で、手にした大刀の刃が、朝日を受けて白く光っている。


――あれか。


范鴻は思った。


先頭を駆けてくる者が、ひとりいる。


軍師は、そう言った。


もうひとつ、命じられていた。追ってこぬときは、近くまで寄って罵れ。人は、侮られれば追う。


范鴻は、口の重い男である。罵りの言葉など、ふだん考えたこともない。この朝のために、夜のうちにいくつかの文句を胸のなかでこしらえていた。ろくなものはできなかったが、やらねばならぬと思っていた。


「進め」


范鴻は、騎兵を動かした。


ゆっくりと前へ出る。攻めかかる気配である。蹄が、刈り入れ前の麦を踏み倒していく。


矢の届くか届かぬかの距離まで寄って、止まる。


岱の右翼が、それを見て身構えた。先頭の巨漢が、大刀を構え直したのが見えた。


そのとき、後方で赤の旗が二度振られた。


「退け」


范鴻は、短く言った。


二千の騎兵が、いっせいに馬首をめぐらせた。退くときは、先頭が最後尾になる。范鴻は、みずから隊の最後尾に回った。


背後で、何か野太い声が上がった。


「逃げるか!」


雷驍《らいぎょう》である。


范鴻が用意していた罵りのひとつを口にする暇はなかった。大男は、敵が背を向けたと見るや、馬の腹を蹴って、いきなり駆けだしていたのである。


罵る必要など、まるでなかった。


范鴻は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。苦笑に近いものが、口元に浮かんだ。


追ってくる。


猪のように、追ってくる。


その背に、右翼の兵が、われ先にと続いた。


   *


そのころ、岱の中央の後方で、岳崇《がくすう》は馬上から戦場を眺めていた。


彼の目には、戦がひとつの図として映っている。


右翼が前へ出ている。左翼が遅れている。中央が、そのあいだで、どちらに歩調を合わせるべきか迷っている。


そして、右翼と中央のあいだに、見る間に隙間が開いていく。


「やはり、走った」


岳崇は、苦いものを口に含んだように、つぶやいた。


彼は、すぐに伝令を呼んだ。


「雷驍に告げよ。追撃を止めよ。中央と歩調を合わせよ」


若い伝令は駆けだそうとして、ふと足を止めた。


「副将のご命令は、本陣を経て、と」


そうだった。


岳崇は、自分がうなずいて承知した取り決めを思い出した。彼は、奥歯を噛んだ。


「では、本陣へ行け。主将に、そう申し上げよ」


伝令は、本陣へ走った。


本陣までは、馬で駆けても、しばらくかかる。


そのあいだに、雷驍は、さらに百歩、前へ出た。


   *


本陣の旗の下で、公孫燁《こうそんよう》は戦場を見ていた。


その顔は、昂揚していた。


「雷驍め」


公孫燁は、ほとんど笑いながら言った。


「やりおる。見よ、あの先頭を。敵が、もう崩れかけているではないか」


「主将」


伝令が、膝をついた。息が上がっていた。


「副将より。右翼の追撃を止め、中央と歩調を合わせよ、とのことでございます」


公孫燁は、伝令を見下ろした。


その顔から、笑いが少し消えた。


「いま、雷驍が敵を追っている。追っているものを、なぜ止める」


「右翼と中央のあいだが開いております、とのことで」


「開けば、中央が詰めればよい。中央を、少し右へ寄せよ。雷驍のあとを追え」


伝令は、ためらった。


「副将には、いかように」


「勝ちかけている軍を、止める理由があるか。そう伝えよ」


公孫燁は戦場へ目を戻した。それ以上、伝令のほうを見なかった。


中央を少し右へ寄せる。雷驍のあとを追う。


それは、公孫燁の目には、勝利の形を厚くする手であった。


ただ、同じ手が、岳崇の目には、ほころびを広げる手に見えていた。


二つの目のあいだに、ちょうど三年前の敗戦が横たわっていた。


本陣の太鼓が、拍子を変えた。


岱の中央が、ゆっくりと右へ傾きはじめた。


   *


范鴻の背後で、蹄の音がしだいに大きくなってきた。


振り返らずともわかる。あの巨漢が、馬を潰す勢いで追ってきている。


退く騎兵の列が流れていく。その最後尾を、范鴻は馬の脚を抑え気味に走らせた。


抑えて、近づけ。


ぎりぎりまで、近づけ。


ぎりぎりまで、待て。


蹄の音が、耳のうしろまで来た。


大刀が風を切る音が、聞こえた。


范鴻は、手綱を握り直した。緩めたまま、ひとつ息を吸った。


あと、三十歩。


あと、二十歩。

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