第11話 釣り出し
距離は、しだいに縮まっていった。
平原の戦は、音から始まる。
太鼓の音が北から低く響き、それに歩兵の足並みが重なって、地鳴りのようになる。三万である。ひとつひとつの足は軽くとも、それが三万集まると、大地が呼吸しているように思えた。
賈牧は、中央の後ろにある、土を盛った小さな丘に立っていた。
視線は、敵の左翼に向けられている。澗から見れば、右翼の正面である。あの旗の林の向こうで、岱の左翼はどう動くか。
岱の左翼が、足を緩めた。
ほんのわずかだった。しかし、そのわずかを賈牧は見逃さなかった。
旗の数を見て、そこに兵がいると信じたのである。兵がいるなら、まっすぐ突っ込むのは危ない。用心とは、そういう顔をして、足元に現れる。
「よし」
賈牧は、小さく言った。
敵左翼が遅れれば、中央もいくらか鈍る。ところが、澗の左翼騎兵に正対する敵の右翼だけは、違う拍子で動いている。
夜明けに見た半歩は、もう半歩ではなかった。
拍子の違う二つの部分が、ひとつの軍のなかに同居する。その継ぎ目が、もっとも脆い。賈牧が打ちたいのは、そこだった。
ただ、継ぎ目は、いまはまだ点にすぎない。
点を線に広げるために、左翼の騎兵がある。
*
左翼の先頭で、范鴻は前方を見ていた。
岱の右翼が近づいてくる。その先頭に、ひときわ大きな男がいた。馬が小さく見えるほどの巨漢で、手にした大刀の刃が、朝日を受けて白く光っている。
――あれか。
范鴻は思った。
先頭を駆けてくる者が、ひとりいる。
軍師は、そう言った。
もうひとつ、命じられていた。追ってこぬときは、近くまで寄って罵れ。人は、侮られれば追う。
范鴻は、口の重い男である。罵りの言葉など、ふだん考えたこともない。この朝のために、夜のうちにいくつかの文句を胸のなかでこしらえていた。ろくなものはできなかったが、やらねばならぬと思っていた。
「進め」
范鴻は、騎兵を動かした。
ゆっくりと前へ出る。攻めかかる気配である。蹄が、刈り入れ前の麦を踏み倒していく。
矢の届くか届かぬかの距離まで寄って、止まる。
岱の右翼が、それを見て身構えた。先頭の巨漢が、大刀を構え直したのが見えた。
そのとき、後方で赤の旗が二度振られた。
「退け」
范鴻は、短く言った。
二千の騎兵が、いっせいに馬首をめぐらせた。退くときは、先頭が最後尾になる。范鴻は、みずから隊の最後尾に回った。
背後で、何か野太い声が上がった。
「逃げるか!」
雷驍である。
范鴻が用意していた罵りのひとつを口にする暇はなかった。大男は、敵が背を向けたと見るや、馬の腹を蹴って、いきなり駆けだしていたのである。
罵る必要など、まるでなかった。
范鴻は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。苦笑に近いものが、口元に浮かんだ。
追ってくる。
猪のように、追ってくる。
その背に、右翼の兵が、われ先にと続いた。
*
そのころ、岱の中央の後方で、岳崇は馬上から戦場を眺めていた。
彼の目には、戦がひとつの図として映っている。
右翼が前へ出ている。左翼が遅れている。中央が、そのあいだで、どちらに歩調を合わせるべきか迷っている。
そして、右翼と中央のあいだに、見る間に隙間が開いていく。
「やはり、走った」
岳崇は、苦いものを口に含んだように、つぶやいた。
彼は、すぐに伝令を呼んだ。
「雷驍に告げよ。追撃を止めよ。中央と歩調を合わせよ」
若い伝令は駆けだそうとして、ふと足を止めた。
「副将のご命令は、本陣を経て、と」
そうだった。
岳崇は、自分がうなずいて承知した取り決めを思い出した。彼は、奥歯を噛んだ。
「では、本陣へ行け。主将に、そう申し上げよ」
伝令は、本陣へ走った。
本陣までは、馬で駆けても、しばらくかかる。
そのあいだに、雷驍は、さらに百歩、前へ出た。
*
本陣の旗の下で、公孫燁は戦場を見ていた。
その顔は、昂揚していた。
「雷驍め」
公孫燁は、ほとんど笑いながら言った。
「やりおる。見よ、あの先頭を。敵が、もう崩れかけているではないか」
「主将」
伝令が、膝をついた。息が上がっていた。
「副将より。右翼の追撃を止め、中央と歩調を合わせよ、とのことでございます」
公孫燁は、伝令を見下ろした。
その顔から、笑いが少し消えた。
「いま、雷驍が敵を追っている。追っているものを、なぜ止める」
「右翼と中央のあいだが開いております、とのことで」
「開けば、中央が詰めればよい。中央を、少し右へ寄せよ。雷驍のあとを追え」
伝令は、ためらった。
「副将には、いかように」
「勝ちかけている軍を、止める理由があるか。そう伝えよ」
公孫燁は戦場へ目を戻した。それ以上、伝令のほうを見なかった。
中央を少し右へ寄せる。雷驍のあとを追う。
それは、公孫燁の目には、勝利の形を厚くする手であった。
ただ、同じ手が、岳崇の目には、ほころびを広げる手に見えていた。
二つの目のあいだに、ちょうど三年前の敗戦が横たわっていた。
本陣の太鼓が、拍子を変えた。
岱の中央が、ゆっくりと右へ傾きはじめた。
*
范鴻の背後で、蹄の音がしだいに大きくなってきた。
振り返らずともわかる。あの巨漢が、馬を潰す勢いで追ってきている。
退く騎兵の列が流れていく。その最後尾を、范鴻は馬の脚を抑え気味に走らせた。
抑えて、近づけ。
ぎりぎりまで、近づけ。
ぎりぎりまで、待て。
蹄の音が、耳のうしろまで来た。
大刀が風を切る音が、聞こえた。
范鴻は、手綱を握り直した。緩めたまま、ひとつ息を吸った。
あと、三十歩。
あと、二十歩。




