第12話 反転
あと、十歩。
雷驍の大刀が、范鴻の背に届く間合いに入った。
巨漢は、馬を潰す勢いで駆けている。顔は紅潮し、目は前を行く敵の背だけを見ていた。馬の口から泡が飛び、その泡が、風に流れて雷驍の頬に当たった。雷驍は、それにも気づかなかった。
この男は、「追いかける」ということを、生涯のなかで一度も疑ったことがない。追えば逃げる。逃げれば追う。追いつけば斬る。
それだけで、二十年を生きてきた。
雷驍は、大刀を頭上に振り上げた。
刃が、真上の陽をはじいた。
背を見せて逃げる馬の首筋が、すぐそこにある。汗に濡れた鬣の一本一本まで、見えた。
「もらった」
振り下ろした。
その瞬間、范鴻の馬が消えた。
――ように、雷驍には見えた。
范鴻は、手綱をわずかに緩めていた。馬は駆けている。駆けたまま、ふいに腰を沈め、左へひらりと跳んだ。
曲がったのではない。
走る方角が、そこでにわかに入れ替わったのである。
雷驍の大刀は、范鴻のいた場所を斬った。
重い刃が、何もない宙を走り抜ける。その勢いに、巨漢の上体が鞍の上で前へのめった。
范鴻の馬は、雷驍の馬の左側を抜けた。
追っていたはずの相手が、目の前から消えた。雷驍の馬は、行き場を失った大刀の勢いに引かれるように、さらに前へ駆けた。
雷驍が自分の置かれた立場に気づいたとき、范鴻はすでに、彼の右側にいた。
戟の刃が、光った。
范鴻は、戟の小枝で雷驍の大刀の柄を絡め取った。手首を返す。
鉄と鉄が噛みあう、鈍い音がした。
大刀が、巨漢の手のなかでねじれた。重い武器は、いちど軌道をそらされると、もとに戻るのに時がかかる。
雷驍は、とっさに柄を離した。離して、腰の剣に手をやろうとした。
だが、遅かった。
范鴻の戟が、返すように走った。
穂先が、雷驍の首筋に入った。
大男は、何かを言おうとしたらしい。口が、言葉の形を作った。
だが、声にはならなかった。
巨体が、ゆっくりと鞍からずれて、馬の腹の後ろへ消えた。主を失った馬だけが、まだ南へ向かって駆けていた。大刀が、麦のなかに突き立っていた。
雷驍は、一度も振り返らなかった。
三度振り返れ、と教えた者がいたことを、この男は最後まで思い出さなかった。
*
范鴻は、馬を止めた。
手のなかの戟が、わずかに震えていた。
父の形見である。父は、これを「孤雁」と呼んでいた。なぜそう呼んだのか、聞かぬうちに父は死んだ。
いま、その戟が、初めて人を斬った。
刃の根もとから、赤いものが一筋、柄を伝って范鴻の手首に落ちた。
范鴻は、顔を上げた。
前方に、雷驍を失った岱の右翼があった。
先頭の将がいない。
それは、軍にとって、足を奪われるのと同じである。
雷驍の麾下は、一瞬、どこへ向かえばよいのかわからなくなった。前へ進めばよいのか、止まればよいのか。
命令は、雷驍の口からしか出ない。その口が、いまはない。
先頭の馬が、足を止めた。
その後ろから、追撃にかかっていた騎兵が押し寄せた。前の馬を避けようとした者が横へ流れ、後続の歩兵は、その動きに気づかぬまま前へ進む。
止まった者と、押す者が、ぶつかった。
馬が棹立ちになり、騎手が鞍から投げ出された。倒れた男の上を、さらに後ろの者が踏んで越えようとして、足をとられた。
そこへ、公孫燁の命令で右へ寄ってきた中央の兵が、斜めから流れ込んだ。
前からは止まった味方が、後ろからは押し寄せる味方が、横からは中央の兵が迫る。三つの流れが、一箇所でぶつかった。
どれも、ただ前へ進もうとしているだけで、誰も誰かを妨げようとはしていない。
にもかかわらず、三つは互いに互いを妨げ合った。
楯と楯がかみあい、動かなくなった。長槍は、振り下ろすだけの隙間がない。槍の林が、穂先を空に向けたまま、右へ左へと揺れた。兵は肩と肩をはさまれ、足が地につかぬまま運ばれていく。誰かが倒れても、倒れる場所さえなかった。
人の群れは、こうなると、押すほどに詰まる。詰まるほどに、押す。
土埃が、その上に厚い蓋をかぶせた。
*
賈牧は、中央後方の丘から、それを見ていた。
土埃の柱が、岱の陣の右寄りの一点で、ほかより高く、濃く、立ちのぼっている。
「ここだ」
言ったというより、かすかに唇が動いただけである。
彼は、范鴻が馬首を返した時点で、合図の旗を振らせていた。青の旗を三度。
合図を受けた騎兵は、退いていた道をそのまま引き返し、敵の混乱点へ殺到する。あらかじめ、そう打ち合わせてあった。
同時に、中央の歩兵が前進を始めた。
太鼓が鳴った。
一打ちごとに、八千の足が、一歩ずつ、そろって地を踏む。楯が胸の高さで一枚の壁になり、その壁が、麦をなぎ倒しながら北へ動いていく。
百歩手前で、太鼓が拍子を変えた。
壁のうしろから、長槍がいっせいに倒された。八千のなかの前列の槍が、穂先をそろえて、まっすぐに北を向いた。陽を受けて、穂先の列が、ひとすじの白い線になった。
左翼から、二千の騎兵が砂埃を上げ、斜めに突っ込む。
二つの力が、敵の結節点へ同じ瞬間に到達するように、賈牧は長い時間をかけて、この拍子を計算していた。
その計算が、いま、現実の時間に重なっていく。
賈牧の唇が、また、かすかに動いた。
数をかぞえていた。
*
先頭に、范鴻がいた。
戟を構え、敵の混乱のただなかへ、まっすぐに駆け込んでいく。その背に、二千騎が続いた。
二千騎が、范鴻を先頭に、楔の形になった。
楔の先端が、岱の兵の群れに触れた。
范鴻は、戟を横に払った。孤雁の刃が弧を描き、突き出された槍が三本、まとめて外へはじかれた。そのまま馬を前へ入れる。開いたわずかな隙間に、後ろの騎兵が次々と身を押しこんでいく。
楔は、止まらなかった。
詰まって身動きのとれぬ兵の群れは、騎兵にとって、ただの林であった。しかも、斬り返してこない林である。
騎兵の一隊の先頭近くに、あの古参の将校がいた。調練場で、范鴻の馬術を「曲芸」とそしった男である。
男は、范鴻の背を見ながら馬を走らせていた。
前をゆく若者の馬が、敵の槍の前で、ふっと向きを変える。変えたときには、もう別の隙間に入っている。調練場で見た、あの妙な馬の使いかたであった。
その馬の通ったあとにだけ、道ができていた。
男は、ふいに、独り言のように言った。
「あれが、曲芸か」
返事をする者はいなかった。
ただ、その男の馬は、范鴻の馬のすぐ後ろで、いっそう速くなった。
同じとき、澗の楯の壁が、岱の右寄りの群れに、正面からぶつかった。
楯と楯が打ち合う音が、野を渡った。
岱の兵は、前から楯で押され、横から騎兵に削られた。押し返そうにも、背中には味方がいる。退こうにも、退く隙間がない。
最初に崩れたのは、群れのいちばん外側であった。
外側の兵が、槍を捨てて逃げはじめた。一人が逃げれば、隣の三人が逃げる。三人が逃げれば、十人が逃げる。
崩れは、外から内へ、波のように広がっていった。
*
岱の陣のなかで、岳崇は、事の成り行きをほとんど呆然と見ていた。
右翼が止まり、中央が流れ込み、詰まり、乱れる。そこへ、横から騎兵、正面から楯の壁。
予想していたことだった。予想していたことが、予想どおりに起こる。
そのことに、彼はひどく疲れた。
「岳崇どの、いかがいたしましょう」
周囲の将が、口々に言った。
岳崇は、ふいに腹を決めた。
「私の直属の隊は、私が動かす。本陣の令は、待たぬ」
将たちが息をのんだ。
軍規に背く。それも、主将が定めた取り決めに、真正面から背くことになる。
「責めは、私が負う」
将たちの後ろで、ひとりの若い隊長が黙って馬首を返した。
岳崇の直属隊に属する、二十二になったばかりの男である。名を、陸稜という。
陸稜は、自分の百人を呼び集めた。
声を張りあげはしなかった。楯を持つ者を前へ、槍の者をそのうしろへ、と短く言って、自分は列の真ん中に立った。それだけで、百人は四角い塊になった。
岳崇は、馬を前へ進めた。
自分の率いる千あまりの隊を混乱の縁へ回し、そこを支える。せめて、そこだけでも崩させぬ。
歴戦の将は、そう決めた。
それは、正しい判断だった。
ただ、遅すぎた。
混乱の核は、すでに岳崇の手の届かぬところにあった。
*
本陣で、公孫燁は、ようやく事態がわかり始めていた。
右の方角で、土埃が渦を巻いている。その渦のなかから、岱の旗が一本、また一本と、倒れては消えていった。
「雷驍は」
と、彼は訊いた。
「雷驍は、いずこか」
返事がない。
その代わり、後ろから伝令の声が飛んだ。
「丁憲どの、討たれました!」
「中央の旗、倒れました!」
「左翼は、正面の旗の兵に備え、動けぬと――」
声が途中で途切れた。
伝令が、膝をついたまま、うしろを振り返った。逃げてくる兵の群れが、本陣の柵に、もう取りついていた。
公孫燁は、周囲を見た。
立っている将が、少なくなっていた。
そこで初めて、雷驍だけの問題ではないことを悟った。
公孫燁の顔から、血の気が引いていった。
自分が腹心に手柄を立てさせようとした、その先に、こうなる道があったことを、初めて理解した。
しかし、理解したときには、軍はすでに崩れ始めていた。
「退け」
公孫燁は、かすれた声で言った。
「退け。全軍、退け」
その号令が諸隊に届くまでには、さらに時を要した。
鉦が打たれた。だがその音は、崩れる兵の叫びと、蹄と、楯の打ち合う音に呑まれて、遠くまでは届かなかった。
号令は、本陣ひとつから出る。
その取り決めを、彼自身が定めたのである。
*
汪野の北縁で、岱軍が崩れ始めた。
潰走というほどのものではない。しかし、崩れる軍というものは、一度崩れ始めると止まらなくなる。
賈牧は丘の上で、それを見下ろしていた。
追撃の旗を、彼はすぐには振らせなかった。
「深追いはしない」
傍らの楊烈に、そう言った。
「汪野の麦を、これ以上踏みにじるな」
楊烈は、少し驚いたような顔をして、それからうなずいた。
北の空は、土埃でかすんでいた。その土埃の向こうに、岱の旗が、ばらばらに翻っていた。
ただ、そのなかに、ひとつだけ、崩れぬ塊があった。
百人ほどの、小さな四角である。楯を外へ向け、槍を立てたまま、列を乱さずに、北へ、一歩ずつ退いていく。逃げる兵の流れのなかで、そこだけが、川のなかの石のように動かなかった。
その四角の真ん中で、若い隊長が、退きながら一度だけ、こちらを振り返った。
賈牧の目は、その塊の上で、ほんの一瞬止まった。
止まって、また、踏み倒された麦の上へ戻った。
その塊を率いていたのが誰であったか。賈牧がその名を知るのは、二年ののち、北の荒野の古い城でのことである。




