第13話 敗者の席
建徳十八年、夏。
汪野を北へ逃れた岱軍は、国境の城に入って、ようやく隊伍を整えた。
城門をくぐる兵の列は、長かった。槍を失った者がいる。片方の沓で歩く者がいる。肩を貸しあう二人の後ろを、主のいない馬が一頭、手綱を引きずってついてきた。
号して四万、実数にして三万。それが、わずか三分の一ほどの寡兵に、したたかに崩された。
この事実は、どの天幕でも口にされぬまま、しかし誰の胸にも、石のように沈んでいた。
三日ののち、宰相・彭延が都から着いた。
彭延は文官である。剣を佩かず、馬にも乗らず、輿に揺られて来た。
輿から降りた老人は、痩せて、背が低かった。出迎えの将たちには目もくれず、城門の脇に積まれた折れた槍の山を、しばらく黙って見ていた。
だが、この男が城の広間に腰を下ろしたとき、居並ぶ将たちの背は、戦場にいるときよりも硬くなった。
岱の軍というものは、結局のところ、この痩せた老人の一言で動き、止まる。
査問は、その広間で行われた。
*
まず口を開いたのは、公孫燁だった。
名門の出である。父はかつて、岱の名将とうたわれた人で、その名は、若い将の肩にはまだ重すぎるほど大きい。
公孫燁は、よどみなく述べた。
「右翼が前に出すぎたのは、副将たる岳崇将軍が、これを抑えられなんだがためにございます。のみならず、将軍は本陣の令を待たず、みだりに兵を動かされた。全軍の号令は、本陣ただ一本に定めてあったはず。それを乱したのは、将軍でござる」
よどみはなかった。
三日のあいだ、幾度も胸のうちで繰りかえした言葉であろう。
ただ、ひとつだけ、彼が一度も口にしなかった名がある。
雷驍。
あの本陣で、血の気の引いた声で「雷驍はいずこか」と訊いた男が、この広間では、若いころから手足のように使ってきた腹心を、最後まで「右翼の先鋒」とのみ呼んだ。
その名を出せば、右翼がなぜ前へ出たのか、理由の根にまで話が及ぶからである。
彭延は、聞いていた。目は、公孫燁の顔ではなく、膝の上の報告書に落ちていた。
岳崇は、黙っていた。
彭延が目を上げて、岳崇を見た。
「独断の儀は、相違ござらぬ」
それだけを言った。
弁じようと思えば、弁じられた。
混乱の縁を千の手勢で支えなければ、崩れは潰走になっていたであろう。そのことは、戦場にいた者なら誰でも知っている。
だが、その判断は正しかったが、遅すぎた。それを誰よりもよく知っているのは、岳崇自身だった。
そして、それを言い立てれば、そのまま公孫燁の責を指さすことになる。
軍というものには、名門の若い将を見捨てる余地がない。岳崇は、それを知っている男だった。
超一流の将ではない。
だが、やれることだけは、いつもきっちりとやる男だった。
その背後の末席に、若い隊長がひとり控えていた。
陸稜。
先の戦で、岳崇のあとに黙って馬首を返した、あの二十二歳である。彼は、この一部始終を、唇を結んで見ていた。
膝の上の拳が、白くなっていた。
*
裁きは、短かった。
「公孫燁。初陣に近き身、功を急ぐは若さの常である。以後、慎め」
「岳崇。令を乱したは、軍法に照らして軽からず。兵権を解き、北辺の守りに転ぜよ」
広間に、誰かの息を吐く音がした。それきり、物音は絶えた。
彭延は、すでに報告書のすべてに目を通していた。
公孫燁が責を他へ移していることも、岳崇の独断が、崩れを総崩れにまで至らせなかったことも、この老人は知っていた。
知ったうえで、この裁きを下した。
宰相という職は、正しさよりも均衡を選ぶ職である。公孫家を傷つけて得るものより、失うもののほうが、いまの岱には大きい。
広間を出るとき、岳崇は陸稜を廊下の隅に呼んだ。
「おぬしの隊は、崩れなんだ。あれはおぬしの手柄じゃ。わしの責に巻き込まれるな」
「しかし……」
「責めは、将が負うものよ。兵に負わせてはならぬ。覚えておけ」
それだけ言って、岳崇は歩み去った。
陸稜は、その背が廊下の角に消えるまで、動かなかった。
この若者が、のちに岱の歴史に名を刻むことになるとは、このときはまだ、誰も知らない。
ただ、宰相の手許に届いた報告書には、その名が記されていた。
崩れゆくなかで、最後まで隊の形を保って退いた隊長として。
岱には、「五岳将」と呼ばれる、軍の最高位の将が五人いる。その一人、南岳がこの名を知ることになるのは、もう少し先のことである。
*
汪野では、戦から十日ほどが過ぎていた。
澗軍は、まだ戦場の南の高みに陣を張っていた。その日の昼、王都からの使いが来て、去った。
戦の日、あれほど騒がしかった野が、いまは風の音ばかりを響かせている。踏み倒された麦のあいだで、倒れずに残った穂が、百姓たちの手で刈られはじめていた。陣のあちこちでは、戦死者を送る小さな火が焚かれていた。
賈牧は、その火のひとつの傍らに、ひとりで座っていた。二十三歳。細い体に、紺の武官装束がよく似合う。
膝の上に、一枚の板がある。墨の名が、ずらりと並んでいた。
賈牧は、板を見ていなかった。火のほうを見ていた。そのくちびるが、かすかに動いている。ひとつ。また、ひとつ。
「ここにおったか」
声がして、老人が隣に腰を下ろした。
蘇謙のあとを継いだ総大将、史連である。この戦でも、その采配は最後まで揺らがなかった。
史連は、賈牧の膝の板に目をやった。何も言わなかった。
「范鴻のことじゃが」
史連は言った。
「あの若いのは、ようやった。敵将を討ち、あの突入。父親が見たら、泣くじゃろう。騎兵の古株どもも、あやつの名を口にするとき、声が変わったわ」
「范鴻の馬を、あれほど信じたのは、儂の賭けでした。外れていれば、騎兵は全滅しておりました」
「賭け、のう」
史連は、火を見ながら笑った。
「おぬしの戦は、見ていて恐ろしい。盤の上で、駒の動くのを、あらかじめ知っておるようじゃ」
「知っているのではありません。敵の足が、そう動かざるをえぬ場所に、駒を置いただけです」
「同じことよ」
火の粉が、ひとつ、夜空へ昇って消えた。
しばらく、二人は黙っていた。
「王都のほうは」
史連が、声を落とした。
「昼の使いの口ぶりでは、妙な具合らしい。王は、范鴻への恩賞の話は、ことのほかお喜びじゃったが、おぬしの名は、ついぞ口にされなんだそうな。それどころか、側近のひとりが、こう申したと聞く。この数年のうちに二度までも大功を立てた、あの若者は、誰の臣か、とな」
賈牧は、火を見つめたまま答えた。
「澗の臣にございます」
「それが通じる相手ならば、よいがのう」
賈牧は、何も言わなかった。
やがて史連は、膝に手をついて、ゆっくり立ち上がった。
「わしは、もう老いた。先は長くない。使い道があれば、遠慮なく言え。年寄りの命は、若い者のそれより、安く使える」
「そのようなことは、言うものではありません」
「言うものではないから、言うておる」
老人は背を向けて歩き出した。
その背は、思いのほか小さかった。賈牧は、その背を、火のそばから長く見送った。
それから、また膝の板に目を落とした。
名の数は、三年前より、多かった。
*
話を、岱の国境の城に戻す。
査問を終えた夜、彭延はひとり灯の下にいた。
机の上に、報告書が積まれている。その脇に、汪野の地図が一枚ひろげてあった。
「数を頼んで、負けた」
老人は、傍らの側近に言った。
「次は、数では押さぬ。兵糧と、拠点で締める」
側近は、意味を測りかねて、黙って頭を下げた。
彭延は、地図の上の汪野に指を置いた。広い野である。広い野では、数は、かならずしも味方をしない。三年のうちに二度、それを見せられた。
指は、しばらくそこから動かなかった。
この一言が、戦場の上に実際の形をとるのは、二年のちのことである。
その二年のあいだに、賈牧は、北の荒野に見捨てられたまま朽ちている、ひとつの古い城を見つけることになる。
灯の芯が、小さく鳴った。




