第14話 見え過ぎる城
建徳二十年、早春。
汪野の北には、道のない土地がひろがっている。
岱国との国境にいたるまで、五日ばかりの行程が、人の住まぬ荒野であった。地味はやせ、水は少なく、麦も育たない。耕す者がいないから、澗の民も、岱の民も、この土地のことを考えたことがなかった。考えぬまま、何代かが過ぎていた。
その荒野へ、范鴻は騎兵百を率いて入った。
命じたのは賈牧である。
「北の荒野を、水場と古い道を探りながら、ひとまわりしてこい。十日でよい」
それだけであった。
何のために、とは言わなかった。范鴻も、訊かなかった。この二年のあいだに、かれは覚えていた。この軍師が理由を言わぬときは、言えぬのではなく、言う時を選んでいるのだ。
口数の少ない男である。訊かぬことは、かれにとって苦痛ではなかった。
*
汪野の戦から二年が過ぎた。
あのとき、范鴻は二千騎の先頭に立ち、敵の混乱のただなかへ駆けこんでいった。その背中を、古参の将校たちは見ている。
かつて范鴻の馬術を「曲芸」とそしった将校がいた。その男が、今度の百騎のなかに、何も言わずに加わっていた。
范鴻は、そのことについて、何も言わなかった。将校のほうも、何も言わなかった。
范鴻自身は、自分が変わったとは思っていない。
亡命者の子であることは、二年前も、いまも、変わらなかった。
*
三日目、道が尽きた。
もともと、道と呼べるほどのものではない。草のあいだに、踏み跡がかすかに残っていただけである。それも、ある地点から先は、草に呑まれていた。
范鴻は馬を止めた。
馬が耳を立てている。
風の匂いか。足の裏に響く何かか。馬は、范鴻の知らぬものを知っているようであった。
范鴻は手綱をゆるめた。馬は草のなかを、右へ、右へと、少しずつ進路を変えていった。
ついてゆくと、丘の陰に、それがあった。
城であった。
といっても、城壁は半ば崩れ、門は倒れ、櫓は二本の柱だけを空に向かって立てている。屋根のあった場所には草が生え、そのあいだに、瓦の破片が白く光っていた。
范鴻は馬を降りた。百の騎兵が、声もなく、かれの背後に並んだ。
「何の城だ」
古参の将校が、低い声で言った。
「わからぬ」
范鴻は答えた。
「名を知る者は、もういまい」
かつて、ここに人がいた。戦があり、城は捨てられた。捨てた者は、戻らなかった。
范鴻は崩れた門をくぐった。
胸のどこかで、何かがかすかに鳴った。
捨てられたものの匂い、とでもいうべきものであった。国を捨てた男の子として、范鴻はその匂いを、物心ついたころから嗅いできた。
それ以上は、考えなかった。考えぬことにした。
*
城内を、くまなく見た。
井戸があった。石組みが残っている。のぞきこむと、底に暗い水が光っていた。涸れてはいなかった。
兵のひとりが縄を垂らして汲み上げ、水をなめた。それから、うなずいた。
「飲めます」
范鴻は、櫓へ向かった。
二本の柱のあいだに、朽ちかけた梯子がかかっている。足をかけると、きしんだ。
下で、梯子の脚を押さえる手があった。
古参の将校であった。誰に言われたわけでもない。将校は顔を上げず、梯子の脚だけを見ていた。
范鴻は、礼を言わなかった。黙って、のぼった。
上は、思いのほか高かった。
南を見ると、汪野が見えた。
春の野は、まだ浅い緑である。風に吹かれ、かすかに波打っている。その果て、霞んだ青のなかに、澗の国が小さく横たわっていた。
北を見ると、道が見えた。
岱へ続く道である。白く、まっすぐに、荒野を貫いている。二台の荷車が並んで通れるほどの幅があった。
その道の上を、雁が一羽、渡っていった。
北へ帰る雁は、群れで飛ぶ。その一羽だけが、なぜか群れから遅れて、ひとり、道のうえをゆっくりと北へ向かっている。
范鴻は、それを目で追った。
追いながら、ふと、妙だと思った。
人の住まぬ荒野である。この城の名を知る者もいない。それなのに、あの道だけは、草に呑まれていない。
*
范鴻は、十騎だけを連れて、道まで下りた。
近くで見ると、道は白い土を踏み固めたもので、ところどころに石が敷いてあった。
その土の上に、轍が走っていた。
新しい。縁がまだ崩れていない。そばに落ちた馬糞も、乾ききっていなかった。
范鴻は、しゃがんで、轍の幅を掌で測った。
荷車である。それも、一台や二台ではない。
「商人の荷にしては、重うござる」
ついてきた古参の将校が言った。
范鴻は答えず、轍の行く先を目でたどった。
轍は、南へまっすぐ延び、汪野のほうへ消えていた。そして、北へまっすぐ戻っていた。
丘の陰へ折れたものは、一本もなかった。
岱は、この道を見ている。
だが、あの城は、まだ見ていない。
范鴻は立ち上がり、北の地平を見た。白い道が、霞のなかへ溶けていた。その先から何が来るのか、范鴻は知らなかった。
知らぬまま、使いを出した。
十日の予定は、五日で終わった。
*
使いが走って四日後、賈牧が来た。
供は数騎である。
軍師は、馬を降りるのに、ひどく手間どった。鐙から足を抜くのに一度しくじり、地に降りてから、しばらく腰に手を当てて動かなかった。
供の兵が、目をそらした。
賈牧が馬に弱いことは、澗の兵なら誰でも知っている。知っていて、誰も口にしない。
「四日、かかった」
賈牧は、腰をさすりながら言った。
「范鴻なら、二日で来るであろうな」
范鴻は、答えなかった。答えようがなかった。
賈牧は崩れた門の前に立ち、しばらく何も言わなかった。
やがて、ふいに訊いた。
「この城を、どう見る」
「見えすぎます」
范鴻は答えた。
「南も、北も、遠くまで見えます。見えるということは、見られるということです。籠もれば、すべて見られます。守るには、向かぬ城です」
范鴻にしては、長いことばであった。
それから、北の道の轍のことを話した。新しいこと。荷車であること。丘の陰へは一本も折れていないこと。
賈牧は、黙って聞いていた。
聞きおえて、少し笑った。
「……そうか。見られるか」
范鴻は、軍師の顔を見た。
守るに向かぬと言ったのである。笑うところではない。だが、賈牧の笑みは、困った者の笑みではなかった。探していたものを、探していた場所で見つけた者の顔であった。
「櫓に、のぼってよいか」
賈牧は、ひとりで梯子をのぼっていった。
梯子の下を、古参の将校が、また黙って押さえた。
范鴻は下で待った。
長い時間であった。風が草をなでている。誰も口をきかなかった。
やがて、賈牧がおりてきた。
その顔には、何の表情もなかった。ただ、ひとことだけ、言った。
「ここだ」
何が、ここなのか。
范鴻は訊かなかった。
賈牧は、もう一度、北の道を見た。それから、南の汪野を見た。
「史連どのに、都へ上っていただかねばならぬ」
ひとりごとのようであった。
指が、袖のなかで、何かを数えるように動いた。
「……六千、要る」
范鴻は、やはり、訊かなかった。
訊かぬまま、軍師の背を見送った。
その背のむこうに、北の道が、白く輝いていた。




