第15話 10日の兵糧
建徳二十年、春。
王都の朝は、香の匂いから始まる。
謁見の間は、石の床であった。春とはいえ、石は冷たく、膝をつく者の骨まで冷えがしみた。高い窓から斜めに光が差し、その光の筋のなかを、香の煙がゆっくりと立ちのぼっている。
昭安王は、奥の椅子に座っていた。
三十を過ぎたばかりである。眉が細く、頬がやわらかい。
いい人だ、と人は言う。悪人ではない。ただ、人がいいことと、王であることは、まったく別のことである。
この王は、その違いを、いまだに知らなかった。
*
史連は、その席で、老いた膝をついていた。
賈牧は来ていない。荒野の城にとどまって、やることがある、と言った。王都へ上ったのは、史連ひとりである。
「申せ」
王は、やさしく言った。
史連は懐から書状を取り出した。賈牧の筆である。
「北の荒野に、見捨てられた古き城がございます。これを修築いたしたく、兵六千を賜りたい。あわせて、その城の北に、小さな砦をひとつ築きます。費えは、すべてここに記してございます」
近習が書状を受け取り、王の手もとへ捧げた。
王は書状を開いた。
しばらくのあいだ、目を落としていた。読んでいるのか、ただ眺めているのか、誰にもわからなかった。
「……荒野に、城を」
「は」
「なぜ、境の外に、城を築くのか」
「岱が、来ますゆえ」
「来るから、こちらから出てゆくと申すか」
「来る道のうえに、置くのでございます」
王の眉が、かすかに寄った。
「それは、岱を怒らせはせぬか」
史連は、何も言わなかった。
言えば、長くなる。長くなれば、この王の耳には、何も残らぬことを、かれは知っていた。
*
そのとき、王の椅子のそばで、ひとりの男が小さく咳をした。
鄭全である。
宦官であった。小柄で色が白く、笑うと目が消える。歳は四十に近い。袖口を、しきりに指でこする癖があった。
王のそばにいて、もう十年になる。
この男は、王の耳のなかにある、ただひとつの小さな隙間を、十年かけて見つけていた。そして、その隙間にだけ、ことばを流しこむことを覚えていた。
「陛下」
鄭全は、声をひそめるように言った。ひそめているのに、その声は広間の隅まで届いた。
「史連将軍のお申し出、もっともかとは存じます。ただ……」
「ただ、何じゃ」
「兵六千と申しますれば、汪野で戦うた軍の半ばを超えまする。その六千を、いったい誰が率いるのでございましょう」
史連が顔を上げた。
「儂が」
「おお、さようで」
鄭全は、大げさにうなずいた。
「老将軍が。それは安心にございます。けれど、陛下」
ことばを、ひと呼吸ぶん置いた。
「その策を練ったのは、あの若い軍師どのでございましょう。二度までも大功を立てたという。……兵は、策を知る者の命にこそ、従うもの。老将軍のお指図か、軍師どののお指図か。六千の兵が、いずれに従うのか。陛下のお耳には、どちらが届くのでございましょうな」
王は黙った。
広間に、香の煙だけが動いた。
史連は、この男を知っていた。
二年前、汪野の戦ののち、王の前で、あの若者は誰の臣か、と口にした男である。いま、同じ男が、同じ口で、同じことを、ことばを変えて言っている。
小さな男だ、と史連は思った。
だが、小さな男には、小さな男なりの刺し方がある。
*
「陛下」
史連が、ゆっくりと言った。
「兵は、賈牧の兵にも、儂の兵にもなりませぬ。陛下の兵にございます。それを、この老骨の首にかけて、お誓い申し上げる」
「首にかけて」
「は。この城には、儂が参ります。総大将の印を持ち、城とともにあります」
言いながら、史連の手が、胸のあたりに触れた。
懐に、総大将の印がある。
ことばの終わりが、わずかに重かった。
王は、ほっとしたような顔をした。
老将軍が城に入る。ならば、あの若者が兵を手の内に握ることはない。それで、この話は片がついたように、王には思えた。
そう思えたとき、鄭全が、またことばを添えた。
「陛下。兵を出すということは、兵の口を養うということでもございます」
「うむ」
「その兵糧まで荒野へ運ぶとなれば、国庫がもちますまい。六千の兵に十日のあいだ食わせるだけの備えを、城に置く。それで十分ではございませんか。足りぬとあらば、そのとき、またお許しあればよろしいかと」
王はうなずいた。
「十日ぶんで、よいであろう。勝てば、よい」
また、それである。
勝てばよいではないか。
この王は、十日ぶんの兵糧で勝つということが、どういうことか、考えたことがなかった。
史連は、深く頭を下げた。
下げながら、かれの唇が、かすかに動いた。笑ったようにも見えた。そのことに気づいた者はいなかった。
*
退出するとき、廊下で鄭全が追ってきた。
「老将軍。お気をつけて」
目が、笑いのなかに消えている。
「若い軍師どのにも、よろしく」
史連は足を止めなかった。
「伝えよう」
それだけ言った。
王都の門を出たとき、日はすでに高かった。城外の麦畑が、浅い緑のなかに広がっていた。
史連は、馬上からそれを眺めた。
この眺めを、あと何度、見られるだろうか。
そんなことを思った。思って、すぐにやめた。年寄りは、そういうことを考えると、長くなる。
北へ、かれは馬を向けた。
*
荒野の城に戻ったのは、十日ののちであった。
丘の陰に、槌の音が満ちていた。
崩れていた城壁に、足場が組まれている。兵が土を運び、石を積み、新しい土の色が、古い壁の灰色のうえに、帯のように重なりはじめていた。倒れていた門は、もう起こされていた。
賈牧は、北の壁の上にいた。
史連が梯子をのぼってゆくと、若い軍師はふりかえり、手を貸そうとした。史連は、その手を払った。
「年寄りあつかいするな」
「失礼しました」
史連は、膝をさすりながら、壁の上に立った。北に、白い道が見える。
「兵六千、お許しが出た」
「ありがとうございます」
賈牧は、頭を下げた。それから、訊いた。
「兵糧は、何日と」
「十日」
賈牧は、しばらく黙っていた。
北の道を見ていた。
「……十日か」
それだけであった。
嘆いたのでもなく、怒ったのでもない。ただ、手のなかの石の重さを確かめるような声であった。
史連も、それ以上は言わなかった。二人は並んで、北の道を見ていた。
*
夏が来た。
六千の兵が、荒野で汗を流した。
城壁は日ごとに高くなり、櫓に屋根がかかった。井戸のそばには、新しい石組みがもう一つ増えた。城の北、半日の行程のところには、生木の丸太を荒く並べた砦が、ひと月たらずで立ち上がった。
その砦から城へ向かう道は、草が刈られ、石が取りのけられ、小さな流れには仮の橋まで架けられた。
なぜ、砦より先に道を整えるのか。兵たちは首をかしげたが、口に出す者はいなかった。
荒野は、静かであった。
だが、静かであったのは、荒野だけである。
その夏のあいだに、春の王都の広間で交わされたことばのうち、ひとつだけが、北へ渡っていた。
十日、という一語であった。




