第16話 南岳の勘定
建徳二十年、秋。
岱の大軍が、国境を越えた。
号して六万、実数にして四万である。
先頭に立つのは、南岳の将・郭巍であった。
岱の軍には、将軍の最上位に五つの称号がある。東、西、南、北、中。それぞれに岳の字を冠して、五岳将という。
岱という国の名が山にちなむように、この国は、将軍に山の名を与える。山の名を負うということは、動かぬということである。
*
砦は、昨日のうちに落ちていた。
古城の北、半日の行程のところに、澗が急ごしらえした砦である。土塁は低く、柵は生木の丸太を荒く並べただけだった。突貫の工事であったことは、ひと目でわかる。
攻城の猛将・鍾塁は、これを一日で落とした。
「澗兵は昼すぎまで粘りましたが、そこから先は、見事な退きぶりでした」
鍾塁は、顔じゅうに笑みを浮かべて報告した。胸の厚い、声の大きな男である。城を攻めるために生まれてきたような男で、攻めさえすれば、そのあとのことは考えない。
「追いはしませんでした。将軍のご下知がありませんでしたので」
「それでよい」
郭巍は、馬上でうなずいた。
五十に近い。背が低く、肩幅が広く、目が細い。武将というより、算盤を置いた商家の主人のような顔をしていた。
声を荒らげることがなく、人の話を最後まで聞く。
この男は、間違えない男であった。間違えないことを、三十年のあいだ、仕事としてきた男である。
岱の宰相・彭延が、二年前に漏らした「兵糧と拠点で締める」という一言を、具体的な形にしたのが、この郭巍であった。
この砦は、拠点としてうってつけである。
*
郭巍は馬を降り、砦のなかを歩いた。
柵の丸太を手で叩く。生木で、まだ樹脂がにじんでいる。土塁にのぼり、周囲を見渡した。東にも西にも森がある。北には、いま来た道が、白く細く伸びていた。
北西の隅で、郭巍は足を止めた。
柵が、そこだけ大きく破れている。破れ目の内側に、澗の兵の亡骸が、まだ片づけられずに残っていた。
五十ほどであろうか。
郭巍は、そのあいだを、ゆっくりと歩いた。
若い者がいない。どの顔も、日に焼け、皺が深い。白髪まじりの頭が多かった。ひとりは、赤茶けた鉢巻をしたまま、柵の丸太にもたれるようにして死んでいた。
背に傷のある者は、ひとりもいなかった。
「退きの太鼓が鳴ってからも、こやつらだけは退きませんでした」
鍾塁が、後ろから言った。
「なかなか、しぶとい爺どもで。おかげで、退く澗兵の尻に、追いつけませなんだ」
郭巍は、しばらく黙って亡骸を見ていた。
殿である。それも、若い兵を逃がすために、古い兵が自ら残った殿であった。手を抜いた戦で、こういう死に方をする兵はいない。
この砦は、本気で守られた。
本気で守られた砦に、罠はない。罠を仕掛ける砦なら、兵をこれほど惜しげなく死なせはしない。
「葬ってやれ」
郭巍は言った。
「敵ながら、見事な退きであった」
それから、井戸に兵が縄を垂らした。汲み上げた水を、郭巍は自分の手で掬い、口に含んだ。毒はない。
床下も、倉の壁も、天井も、くまなく調べさせた。細工はなかった。
そこへ、輜重督の蔡斛が小走りにやって来た。
痩せて、目がせわしなく動く男である。算盤を、いつも懐に忍ばせている。
「将軍。兵糧の搬入、ほぼ終わりましてございます。二十日ぶん、八千石」
「倉に入ったのは」
「三割ほどにございます。倉が小そうございますゆえ。残りは南門の外に、筵と油紙をかけて、野積みにいたしました」
郭巍は、南門のほうへ歩いた。
門の外には、俵の山がいくつもできていた。人夫が牛馬を引き、なお運び込んでいる。牛の鳴き声と掛け声が、秋の空に低く広がっていた。
郭巍は俵の山を見て、少し考えた。
「野積みは火に弱い。見張りを置け」
「は」
「巡回の数は、あとで決める。そのまま待て」
それだけ言って、郭巍はまた歩き始めた。
*
その背後を、ひとりの若い隊長が黙ってついていた。
陸稜である。
二十四になった。背は高くなく、口が堅く、日に焼けている。あの汪野の敗戦で、崩れてゆくなかを最後まで隊の形を保って退いた男として、報告書に名が残っていた。
郭巍は、その名を覚えていた。それで、自分の直属にした。
陸稜は、先ほどから足もとを見ていた。
砦の南門から南へ、道が伸びている。古城へ向かう道である。
その道が、少しよすぎた。
草が刈られている。石が取り除かれている。小さな流れには、仮の橋まで架けてあった。
陸稜は、橋のたもとにしゃがんだ。
橋の板は、乾いていた。夏の日に焼かれて白茶け、ふちが反っている。指でこすると、ざらりとした。
ふりかえると、砦の柵が見えた。生木の丸太から、まだ樹脂がにじんでいる。
板は乾き、柵は濡れている。
突貫で築いた砦に、これほどの道を、いつ作ったのか。
「将軍」
陸稜は、声をかけた。
「ひとつ、申し上げてよろしゅうございますか」
「申せ」
「澗の退き道が、よすぎます」
郭巍は足を止めた。
「どのように」
「南門より古城へ向かう道は、草を刈り、石をのけ、橋まで架けてございます。橋の板は乾ききっておりますのに、砦の柵は、まだ樹脂も乾いておりませぬ。砦ができたよりも前に、退く道のほうが先にできていた、と見るほかありませぬ」
「そうだな」
郭巍は、あっさり認めた。
陸稜は、少し驚いた。
「澗は、この砦がもたぬことを、はじめから承知していた。承知で作り、承知で捨てた。砦は、古城を守るための前哨にすぎぬ。わしは、そう読んだ」
「ならば、捨てた砦に、何か……」
「調べさせた。井戸に毒はなく、床下に火の気もなく、倉に細工もない。それに、北西の柵を見たであろう」
陸稜は、うなずいた。
「捨てる砦に、あれだけの古兵を死なせる将はおらぬ。この砦は、捨てるために作られたが、捨てるまでは本気で守られた。罠があるとすれば砦ではない。退いた先、古城であろう。そこで、われらを待っている」
陸稜は、ことばに詰まった。
郭巍の読みは筋が通っている。通りすぎるほど、通っていた。
それでもなお、胸のなかに小さな石のようなものが残っている。そのことを、陸稜はうまく言い表せなかった。
「兵糧は」
かれは、ようやく口にした。
「兵糧をこの砦に置くこと、それ自体が、賈牧の望みではありますまいか」
郭巍は黙った。
長くはなかった。しかし、考えている顔であった。
「あるいは、そうかもしれぬ」
かれは認めた。
「だが、置かねば、国境の城から二日の道を、毎日運ぶことになる。荷車は道をふさぎ、四万の腹は、道の上で減る。賈牧の望みに逆らうために、四万を飢えさせるのか」
陸稜は答えなかった。
「相手の望みに逆らうこと、それ自体を目的にしたとき、人は、すでに相手の盤の上で踊っている。わしは、わしの勘定で動く」
静かな声であった。
それから郭巍は、ひと呼吸おいた。
「ただし、野積みの見張りは倍にせよ。水桶を並べよ。東西の森にも斥候を出せ。おぬしの違和感に、わしが払える値段は、そこまでだ」
陸稜は頭を下げた。
「は」
郭巍は歩み去った。
*
陸稜は、しばらくその場に立っていた。
公孫燁であれば、聞かなかったであろう。あの本陣では、副将の進言はついに通らなかった。
しかし、郭巍は聞いた。聞いて、考え、そのうえで退けた。
聞かぬよりも、はるかに手ごわい。
陸稜は、そう思った。
なぜ手ごわいと思うのか、自分でもわからなかった。
砦の門から、騎馬の斥候が二手に分かれて出ていった。一手は東の森へ、一手は西の森へ。夕暮れの野を、小さな影が駆けてゆき、やがて木々の暗がりに吸いこまれた。
森は、何の音も返さなかった。
その森のさらに外、低い丘の陰から、斥候の背を見送っている者があった。
陸稜は、それを知らない。
かれは、南門のほうへ目を移した。
俵の山にかけた油紙が、夕日を受けて、赤く光っていた。
火の色に似ている、と陸稜は思った。
思って、すぐに打ち消した。




