第31話 線
建徳二十三年、春。
壱城の戦から、三度めの春である。
汪野の道に、人が増えた。
荷を背負った者。子の手を引いた者。痩せた牛を一頭だけ連れた者。北から、あるいは東から、人はひとかたまりになって、澗の国境をこえてきた。岱の徴発に追われた者もいる。岱が呑んだ小国の跡に、居場所を失った者もいる。行き先は、みな同じであった。
――澗へゆけば、麦が刈れる。
どこで生まれた噂か、誰も知らない。壱城の戦で岱の大軍を退けた若い軍師がいる。その軍師は、戦のさなかにも汪野の麦を踏ませなかった、という。
民というものは、剣の強さよりも、そういう話のほうを遠くまで運ぶ。
岑は、畦に立って、その列を見ていた。
老いた、とはまだいえぬ歳である。ただ、三年のあいだに、腰のあたりがすこし重くなった。足もとでは、秋に蒔いた麦が、膝の下ほどの丈に青くそろっている。その畝のはずれの荒れ地に、見知らぬ家族が掘立小屋をたてはじめていた。岑は、それを黙って眺めていた。
「ここは、わしの畑の隣だが」
岑がいうと、小屋をたてていた男が、ぎくりと手をとめた。
「へえ。じゃが、荒れ地じゃと聞いて」
「荒れ地よ。石が多い」
岑は、それだけいって、自分の畑へもどった。咎めるでもなく、許すでもない。
夕方になって、岑は小さな袋に麦の種をひとつかみ入れ、その小屋の前に置いた。男が戸口から顔を出した。
「秋に、蒔け」
岑はそれだけいって、背を向けた。
*
澗の都、泉陽は、涸れぬ河の北岸にある。
この年の泉陽は、人の数に、町のほうが追いつかなかった。城門の外には、天幕がずらりとならんでいる。戸籍をたしかめ、仕事を割りあて、麦の種と鍬をわたす。
それだけのことが、役所の手に余るほどの量になっていた。
その役所の一室で、ひとりの若者が、竹簡の山にうずもれていた。
二十になるか、ならぬかである。顔が小さく、目がよく動き、口は手よりも先に動いた。
「いや、これはおかしい。三番の天幕の人数が、昨日より九人ふえておるのに、麦の割りあては同じです。九人ぶん、誰かの腹がひもじいことになる。ひもじい者は、怒る。怒る者が三百人あつまれば、これはもう、小さな戦でございますぞ」
誰に聞かせるともなく、喋りつづけている。
同室の古い役人が、うんざりした顔で筆をおいた。
「柳修。おぬしは、手をうごかしておれば、よいのだ」
「手は、うごかしております。口も、うごかしております。同時にやれるのが、わたしの取り柄で」
柳修は、ぺろりと舌を出して、また竹簡に目をおとした。
流民のひとりであった。北の、岱に呑まれた国の生まれである。澗に流れてきたのは、三年まえの冬であった。字が書けて、算が立つ。それだけの理由で、三月まえ、役所の隅に机をひとつもらったのである。
その机の前に、いつのまにか、紺の武官装束の男が立っていた。
「天幕の数を、数えなおしたのか」
柳修は、顔をあげた。
細い、若い男である。三十にはまだ間がない。ただ、目だけが年齢にあわぬ落ち着きをたたえて、竹簡の上にじっと据えられていた。
柳修は、こういうとき、遠慮というものを知らなかった。
「は。数がどうも合いませぬので。……失礼ながら、どなたさまで」
「賈牧という」
部屋のなかの空気が、止まった。
柳修だけが、止まらなかった。
「ああ、それは」
かれは立ちあがって、深々と頭をさげた。
「麦を、踏ませなんだお方で。いや、こうしてお目にかかれるとは。しかし、思うておったより、お若い。いや、これは、失礼」
古い役人が、青くなっていた。
賈牧は、わずかに口の端をうごかしただけである。
「九人ふえたぶんは、どうすればよい」
「は」
「おぬしなら、どう割りあてる」
柳修は、ひと呼吸もおかなかった。
「割りあてるより先に、働かせます。九人のうち、鍬の持てる者は、堤の補修にまわす。働いた者には、働いたぶんだけ麦を出す。ただで配るより、受けとる者が、ましな顔をします」
「堤」
賈牧が、短くくりかえした。
柳修は、気づかなかった。
「汪野の北の、古い堤でございます。このあいだ、天幕のものと歩いてきましたが、あれは手入れをすれば、もう一度、水が留まる。田をふやせます」
「そうか」
賈牧は、それ以上何もいわなかった。ただ、柳修の机の上に、竹簡を一本置いた。
「後で、儂の部屋へ来い」
それだけいって、去った。
柳修は、しばらくぽかんとしていた。それから、古い役人のほうをふりむいた。
「いまのは、お褒めの言葉でしょうか。それとも、お叱りでしょうか。わたしの見たところ、口の端が、七分がた笑っておられましたが」
「知らぬわ」
古い役人は、頭をかかえた。
*
夜、賈牧の部屋には、大きな地図がひろげられていた。
壱城の戦のあと、かれが櫓の上でひろげた、あの岱の図である。あのとき、岱の都へむかう道に細い線を一本引きかけて、途中で筆をとめた。その線は、いまも、そこで切れている。
柳修は、灯のとどかぬ隅に、きちんと座らされていた。座らされているあいだじゅう、かれの口は、うずうずと動いていた。
「丞相」
とうとう耐えきれなくなって、かれはいった。
「と、お呼びしてよろしゅうございますか。このあいだ、王のお沙汰がおりたと聞きました。澗に丞相が置かれるのは、十五年ぶりとか」
「好きに呼べ」
「では、丞相。総大将と丞相を、おひとりで兼ねられる。これは、澗の歴史にない。王は、よほど丞相を頼りにしておられる」
「頼りにされているのではない」
賈牧は、地図から目をはなさずにいった。
「ほかに、頼る者がおらぬだけだ」
柳修は、そこではじめて黙った。
黙ったのは、わずかのあいだである。
「その、線でございますが」
かれは、膝をすすめた。
「岱の都へ、むかっておられる。ということは、攻めるおつもりですな。いや、お答えにならずとも結構。わたしが、勝手に読みます。兵糧の道を、先にたしかめておられる。そうでしょう。攻めるには、まず糧道。糧道が長ければ、途中に拠点がいる。拠点を置く場所を、いまから探しておられる」
賈牧は、筆をとった。
線のさきに、墨をふくませる。
切れていた線が、ゆっくりとのびていった。国境の城。荒野。山。河。関。そして、岱の都に、とどいた。
柳修は、息をのんだ。
賈牧は、筆をおいた。
「外れだ」
「は」
「攻めるために、引いたのではない」
賈牧は、線の端から端までを、指でたどった。細い指である。その指が岱の都から澗の汪野までもどってきたとき、かれは、ひとことだけいった。
「どれほど遠いかを、知っておきたかった」
柳修は、首をかしげた。
「遠い、ことが、何の役に」
「役にはたたぬ」
賈牧は、灯のほうへ顔をむけた。
「ただ、遠いものを遠いと知らぬまま、人は、近いと思いこむ。思いこんだまま、戦をする。……それが、いやなだけだ」
柳修には、その意味がよくわからなかった。
わからぬまま、かれは、読みを外されたことだけを、はっきりとおぼえた。
かれは、自分の勘があまり当たらぬ男であることを、薄々知っていた。ただ、当たらぬ勘にも使い道はある、とも思っていた。外れた先に、本当のものが見えることがある。この人の前では、とりわけ、そうらしい。
「丞相」
「何だ」
「わたしは、また、外れましたか」
「外れた」
賈牧は、地図をたたんだ。
「明日から、堤を見に行く。おぬしも来い。歩きながら、また、読め」
灯がゆれた。
窓のそとで、汪野の風が、青い麦の匂いをはこんできた。
丞相の印を受けて、賈牧がまっさきにしたことを、柳修は知らない。
国の外に、耳を置いたのである。数は、片手で足りる。行商人であったり、渡し守であったり、馬喰であったりする、名を持たぬ男たちであった。
*
丞相の部屋を辞して、柳修は、夜の役所の廊下を歩いた。
歩きながら、昼の竹簡のことを思いだした。机の上に置かれて、そのまま懐に入れたきりであった。何のための一本か、訊くのを忘れていた。口ばかり動いて、肝心のことを訊かぬ。古い役人に、いつも言われていることである。
廊下のはしの灯の下で、柳修は竹簡をひらいた。
名が、二つ書いてあった。
朱倫。喬平。
名の下に、それぞれ小さな字が添えてある。泉陽の倉の吏。汪野の郷の下役。
どちらも、柳修の知らぬ名であった。知らぬ名を、柳修は二度、口のなかで読んだ。読んでも、何もわからなかった。
この竹簡が何のためのものか、柳修はまだ知らない。
その二つの名を、宮の奥で、もうひとりの男が口のなかでくりかえすのは、初夏のことである。




