第32話 王の機嫌
建徳二十三年、初夏。
王の朝は、このところ機嫌がよい。
謁見の間の石の床に、斜めに光がさし、香の煙がその筋のなかをゆっくりと立ちのぼっている。昭安王は、奥の椅子に座って、手もとの帳面をひらいていた。帳面といっても、自分で読むのではない。近習がひらいて、ささげてくる。王はその上に目を落とし、ときおり、うむ、とうなずくだけである。
それでも、数字というものは、不思議と人の気分を軽くする。
「戸の数が、三年のうちに、四割ふえました」
近習が、声を張った。
「汪野の新田、すでに千町を越え、この夏の麦は、昨年の倍を見込んでおります。徴発にこたえうる丁壮の数も、おおよそ六割の増にございます」
「ほう」
王は、帳面の上の数字を、指でなぞった。読めてはいない。ただ、指のうごきがうれしそうであった。
「国というのは、ふくらむものじゃのう」
「は」
「三年まえは、岱が攻めてくると聞いただけで、夜も眠れなんだ。いまは、どうじゃ。よく眠れる」
王は、そういって、ひとりで笑った。
三十のなかばである。眉が細く、頬がやわらかい。いい人だ、と人はいう。事実、この王は、人をうたぐるということが苦手であった。苦手というより、うたぐるには、あまりにも怠け者であった。
その怠け者の王の目の前に、いま、うたぐるべき理由がひとつもない。それが、このごろの王の機嫌のよさの根であった。
*
賈牧は、昼前に参内した。
紺の武官装束に、帯剣である。丞相という職は、澗には十五年のあいだ置かれていなかったから、その装束の決まりも、誰も知らなかった。賈牧は、それまでの軍装のまま、玉座の前に膝をついた。
「おお、丞相」
王は、身をのりだした。
「よう来た。数字を聞いたか。そなたのおかげじゃ」
「畏れ入ります」
賈牧は、頭を垂れたままいった。
「それがし一人の力ではございませぬ。汪野の民が、鍬を振るいました。数は、そのまま、民の汗の数にございます」
「謙遜は、よい。よいが、わたしの前では、もっと胸をはってよいのじゃぞ」
王は、機嫌のよさのままに、ことばを続けた。
「そなたがおれば、岱が来ても、恐ろしゅうない。そう思うておる。……まこと、そう思うておるのじゃ」
その声に、うそはなかった。
賈牧は、顔をあげなかった。顔をあげれば、この王の目が、うれしさのあまりすこし濡れているのが、見えてしまうからである。
この王は、悪い人ではない。史連が、先王のことばとして、そう教えてくれた。倅は、人がよい、と。人のよい王は、悪い者に使われる。
その悪い者が、いま、王の椅子のすぐそばに立っていた。
*
「陛下」
鄭全であった。
小柄で、色が白く、笑うと目が消える。袖口を、指でこすっている。王のそばにいて、もう十三年になる。
「丞相のお働き、まことに、澗の宝にございます。わたくしども宦官の身にも、そのありがたさが、骨身にしみますれば」
「おお、鄭全。そちも、そう思うか」
「思いますとも」
鄭全は、目を消して笑った。
賈牧は、頭を垂れたまま、その声を聞いていた。
澗の宝。壱城の門前で、勅使の口から聞いたのと、同じことばであった。
この男の口は、ほめるときには、かならず何かを積みあげている。積みあげて、あとで倒す。その倒しかたを、賈牧はまだ見たことがなかった。見たことがないことが、かえって背に冷たいものをはしらせた。
「丞相。何か、望みはないか」
王が、いった。
「これほどの働きを、してくれたのじゃ。何か、取らせたい。爵位でも、領地でも、申してみよ」
「ひとつだけ、お願いがございます」
賈牧は、いった。
「人を、お引き立ていただきたく存じます」
「人」
「は。二人。いずれも、内の政を担わせたい者にございます」
王は、首をかしげた。
「武の者ではないのか」
「戦は、それがしがどうにか致します。戦のあいだ、国を支える者が、足りませぬ」
賈牧は、顔をあげずに、つづけた。
「流民が増え、戸が増え、田が増えました。増えたぶんだけ、数えねばならず、割らねばならず、養わねばなりませぬ。それを、いまは、疲れた古い役人と、数人の若い者とで、どうにか回しております。回っているのは、人の力ではなく、運にございます」
「運」
「運は、いつか、尽きまする」
王は、すこしぽかんとした。それから、うれしそうに笑った。
「それは、よい。国のためじゃな。して、その二人とは」
「ひとりは、朱倫と申します。泉陽の倉の吏にございます。年は四十がらみ。二十年、帳簿の穴を直しつづけて、ついに一度も、昇ることがございませなんだ。数字を、ごまかさぬ男でございます。ごまかさぬゆえに、上役に疎まれました」
「ごまかさぬゆえに、疎まれたか」
「は。もうひとりは、喬平と申します。汪野の郷で、租の割りあてを預かってきた下役にございます。年は三十ほど。口数がすくなく、算より先に、人の顔を見る男でございます。百姓と役所のあいだに立って、二十の村の苦情を聞きつづけて参りました。誰がどれほど飢えるかを、帳面を見ずに言いあてまする」
「百姓の出か」
王は、すこし眉をよせた。
近習たちの間に、かすかなざわめきがはしった。郷の下役を、王の籍に入れる。そのようなことは、澗の歴史に、あまり前例がなかった。
重臣の列の端で、眉の白い老人が、ひとり、ちいさくうなずいた。
魏端という。先王のころから宮中にある老臣で、耳に痛いことを平気で言うので、王はすこし苦手にしている。その魏端がうなずいたのを見て、ざわめきは、すっと引いた。
「出は、功のうちにも、罪のうちにも、数えませぬ」
賈牧は、静かにいった。
「あの者の働きだけを、御覧くださいませ」
王は、しばらく考えるふうであった。考えるふうであって、実のところ、何も考えていなかったのかもしれない。ただ、この丞相のことばには、どこか拒みにくいものがあった。
「よかろう。許す」
王は、笑った。
「しかし丞相。そなた、欲がないのう」
「畏れ入ります」
「ほめておるのじゃ」
王は、そういって、ふと袖口のほうへ目をやった。鄭全が、指で袖をこすっていた。
*
賈牧が、退出した。
重臣たちも、ひとり、またひとりと退いた。最後に出ていったのは、魏端であった。扉のところで、老人は、王の椅子のそばに立つ鄭全に、目もくれなかった。宮中で、この宦官に目をくれる者は、ほとんどいない。
鄭全が本当に口をひらくのは、たいてい、重臣たちが退いたあとであった。重臣の前で、この男のことばに耳を貸す者は、ひとりもいない。耳を貸すのは、王ひとりである。
玉座の間には、香の煙と、王と、鄭全だけがのこった。
しばらく、誰もものをいわなかった。
「陛下」
鄭全が、声をひそめた。ひそめているのに、広間の隅までとどく声である。
「丞相は、まことに、よくお考えでございます。……ただ、わたくしども、愚かなもので、ひとつだけ、気がかりが」
「何じゃ」
「推挙の、ことにございます」
王は、まばたきをした。
「国のためじゃと、そなたも、聞いておったろう」
「は。国のためにございます。まことに、国のためにございます。ただ、人というものは、拾い上げてくれた者の恩を、忘れませぬ」
鄭全は、ことばをひと呼吸おいた。
「朱倫と、喬平。丞相が拾いあげた者が、役所の要に座る。これから先も、増えましょう。丞相のお目にかなう者は、澗に、まだいくらでもおりましょうから」
「それが、どうした」
「その者たちは、役所で、誰の名を、唱えましょうか」
「……」
「汪野の民は、いま、丞相のお名を口にしながら、麦の色づくのを待っておるそうにございます。壱城のあと、麓の民が地にひれふした、と聞きました。使者が、そう申しました。わたくしも、使者の口から聞きました」
鄭全の声は、やさしかった。
「その丞相の背に、民があり、役所があり、これからまた、人が増える。陛下のお名を、そのように唱える者が、澗に、何人おりましょうや」
王は、すぐには答えなかった。
石の床に、光の筋がゆっくりとうごいている。香の煙が、その筋のなかでゆらいだ。
「……鄭全」
「は」
「そちは、丞相を、疑うのか」
「めっそうもない」
鄭全は、目を消して、深々と頭をさげた。
「丞相が陛下を裏切るなど、考えることすら、不敬にございます。ただ……ただ、人というものは、ひとりでは動かぬもの。わたくしは、そのことが、すこし、こわいだけで」
鄭全は、口の中で、ふたつの名をそっとくりかえした。朱倫。喬平。声にはならぬほどの、小さな息であった。
王は、口をひらきかけて、閉じた。
言うべきことばが、見つからなかった。
――賈牧は、澗の臣じゃ。
そう言い切ればよいのである。言い切るだけの信が、この王にも、ないわけではなかった。
それでも、舌の根が動かなかった。
鄭全は、それ以上何もいわなかった。
いわぬことが、このとき、いちばん深く刺さることを、この男は、十三年かけて覚えていた。
*
同じ日の朝、汪野の東のはずれに、霧が出ていた。
乗との境にちかい、丘あいの村である。
四日まえ、この村の倉が襲われた。襲ったのは、二百ほどの男たちであった。甲の継ぎめが赤く錆び、槍の柄に、荻の兵の焼き印が残っている。荻と檀が岱に呑まれたあと、帰る国をなくし、山から山へ流れてきた敗兵のなれの果てであった。倉の麦を奪い、そのまま村に居すわった。村の者は、家の奥で息をひそめている。
范鴻は、村を見おろす丘の上で、霧の晴れるのを待っていた。
連れてきたのは、三百騎である。手もとの二千のうちから、足のよい馬だけを選んだ。丘につくと、范鴻はまず、自分の馬の脚に手のひらを当てた。前脚、後脚と、順に撫でおろして、熱を見る。それから、ようやく村のほうへ目をやった。
霧のあいだから、藁屋根がひとつずつ浮かんできた。屋根の下から、煮炊きの煙がいくすじか立っている。村の者のものか、野盗のものか、ここからはわからない。
「囲みますか」
韓倹が、いった。
かつて、范鴻の馬術を曲芸とそしった男である。いまは、范鴻の馬の半歩うしろにいる。
「村の中では、やらぬ」
范鴻は、それだけいった。
騎馬は、垣と路地のなかでは、足が死ぬ。足が死ぬだけではない。火が出る。家が焼け、村の者が巻きこまれる。家を焼いて野盗を討っても、それは討ったことにならない。范鴻は、そういうことを、口では言わぬ男であった。
「出てこさせる」
范鴻は、五十騎だけを連れて、丘をくだった。
*
村の前に、春の雪解け水が引いた、広い河原がある。
五十騎は、そこへ、ばらばらに出ていった。
列を組んでいない。馬は首を垂れ、騎手は鞍の上で背をまるめている。ひとりは、馬を降りて、水を飲ませはじめた。遠くの丘から来て、疲れきった見回りの小隊にしか見えなかった。
村の垣のかげで、人の動く気配がした。
野盗の頭は、もとは荻の百人長であった。騎馬のことは、知っている。知っているから、目の前の五十頭を、そのまま五十の逃げ足と勘定した。岱に追われ、澗に追われ、この先も逃げつづけるなら、馬は麦よりもほしい。
垣のかげから、槍が出た。
百五十ほどである。槍を前にそろえ、穂先を並べた四角い塊になって、河原へ押しだしてくる。敗兵とはいえ、もとは兵であった。足なみは、そろっていた。
范鴻は、馬上で、それをじっと見ていた。
槍の塊が、五十歩まで来た。
范鴻が、馬首をかえした。
五十騎がそれにならって、背を向けた。逃げるといっても、速くない。馬の足が重そうである。ひとりが手綱を取りおとしかけて、あわてて拾った。
野盗が、声をあげた。
追った。
歩兵が騎馬を追えば、どうなるか。槍の塊は、走るうちに、前と後ろにのびた。速い者が前に出て、遅い者がうしろに残る。四角かったものが、一本の長い紐になった。紐の端が、村の垣から、どんどん離れてゆく。
河原のなかほどで、范鴻は手綱を引いた。
馬が、河原の石の上をすべるように、くるりと向きを変えた。ほかの四十九騎も、ほとんど同じ刹那に向きを変えた。さっきまで重そうだった足が、嘘のように軽かった。
同時に、丘の上から、残りの二百五十騎がくだってきた。
河原と村の垣のあいだへ、斜めに、楔を打ちこむように駆け入る。紐のうしろの端が、断ち切られた。野盗は、村へ戻る道をうしなった。
前の端には、范鴻がいた。
戟が、ひと振り鳴った。父の形見の、孤雁である。古びた柄が、日をうけてにぶく光った。先頭の槍が三本、まとめてはね上げられた。
そのあとは、もう、戦いとはいえなかった。
野盗の頭が、河原の石の上で何か叫んだ。四角を組みなおせ、と言ったのであろう。組みなおすだけの間がなかった。范鴻の馬が、頭の目の前で止まった。戟の穂先ではなく、石突きが、頭の胸を突いた。頭は、河原に仰向けに倒れた。
「縄を」
范鴻は、いった。
「殺すな。逃げる者は、追うな」
四半刻ののち、河原には、槍がいく本も投げすてられていた。
村の家は、一軒も焼けなかった。
*
夕刻、王は、ひとりで窓のそばに立った。
窓のむこうは、汪野の方角である。
いまの時分は、麦の穂が、すこしずつ色づきはじめる。この窓から、その色は見えない。見えないが、ひろがっていることは、わかった。国は、ふくらんでいる。ふくらんでいるのは、あの男のおかげである。
王は、そのことを、ありがたいと思った。
ありがたいと思うことと、こわいと思うことが、同じ胸のなかにならんで住みうるということを、このときの王は、はじめて知った。
近習が、灯をはこんできた。
「陛下。夕餉は」
「ああ」
王は、窓から目をはなさずにいった。
「勝てば、よい」
それは、いつもの口ぐせであった。
いつもの口ぐせの、はずであった。ただ、このときの王の声には、いつものあかるさがなかった。
近習は、何も聞かなかったふりをして、灯を卓の上に置いた。
香の煙が、窓のほうへ、ゆるやかに流れていった。
*
同じ夕べ、汪野の東の河原にも、日が傾いていた。
野盗を縄にかけ、奪われた麦の袋を倉の前に積みなおしおえたのは、その時分である。村の者が、ひとり、ふたりと家から出てきて、遠巻きに騎馬の列を見ていた。
河原のはしで、若い騎兵がひとり、馬の脚を洗っていた。
十九である。泉陽の、葛という吏の家の次男で、隊に来て半年になる。これが、はじめての戦であった。槍を一本はね上げたほかは、何もしていない。
誰に言われたわけでもない。若者は黙って河に馬を入れ、冷たい水を、手のひらで脚にかけてやっていた。
韓倹が、それを見た。
「あれは」
「ああ」
范鴻は、短く答えた。
それだけであった。ただ、范鴻の目は、しばらく、その若者の手もとから離れなかった。
夕日が、河の面を赤く染めていた。若者の手が水をすくうたびに、その赤がこぼれて、馬の脚をつたった。
その若者が、范鴻を夕餉に招くのは、十日ののちのことである。




