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賈牧伝  作者: fukabatohfu
第3章 壱城攻防戦

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第30話 勝ちのあと

古城は、その夜、ひさしぶりに、灯があふれた。


勝った、という報せが、荒野の風にのって、兵の口から口へ、あっというまに、城じゅうにひろがった。炊ぎの煙が、いつもより多く立ちのぼった。酒など、あるはずもなかったが、誰かが、どこからか、わずかな濁り酒を見つけてきて、車座で、すこしずつ回しあった。


歌も、出た。調子はずれの、古い軍歌である。


その声を、賈牧《かぼく》は、城壁の上で、聞いていた。


北の荒野は、暗かった。岱《たい》の灯は、もう、ひとつも見えなかった。かわりに、焼けた砦の方角が、まだ、うす赤く、夜空の端を染めている。


兵たちの歌は、喜びに満ちていた。


賈牧は、その歌を、すこし遠くに聞きながら、北の闇を、見つめていた。


   *


この城に、名がついた。


修築のとき、門の礎石を掘りおこしたら、石の表に、一字だけ、彫りつけられているのが見つかった。


壱。


それだけであった。誰が、いつ、何のために彫ったのか、わからない。ただ、兵たちは、それを見て、この城を、壱城《いちじょう》、と呼びはじめた。


名のない城に、名がついた。


見捨てられた城に、人が戻った。


そのことを、賈牧は、うれしいとも、かなしいとも思わなかった。ただ、石の上の一字を、しばらく、見つめていた。


   *


史連《しれん》の遺骸は、城の北の隅の、小さな堂に、安置された。


范鴻《はんこう》が、馬の背にのせて、運んできた亡骸である。白髪は、きれいに撫でつけられ、胸の上には、総大将の旗が、たたまれてのっていた。


賈牧は、夜ふけ、ひとりで、その堂に入った。


灯がひとつ。老人は、眠っているように見えた。


賈牧は、傍らに、膝をついた。


何も、いわなかった。


長い時間が、過ぎた。


あの夜のことを、賈牧は、思いだしていた。


楼の上で、史連が問うた夜である。郭巍《かくぎ》を討ち取れるか、と老人は訊いた。答えは、あすの朝でよい、それまで迷え、と言いおいて、階をおりていった。


賈牧は、迷った。琴を弾きながら、迷った。指の腹が切れて、弦が、すこし湿った。その痛みのなかで、決めた。


決めたことを、范鴻には、告げた。


史連には、ついに、告げなかった。


夜が明けて、門のそばで老人の前に立ったとき、口をひらきかけた賈牧に、史連は、顔も向けずに言ったのである。


――何も言うな。


告げずとも、老人は、知っていた。知っていて、何も言わせなかった。


惜しむな、と楼で言った人である。重いほうを選べ、と櫓で言った人である。答えを聞けば、賈牧の重さを、すこし引き受けることになる。それを、この老人は、しなかった。重いものは、重いまま、賈牧の手に残していった。


いま、その老人は、ここに、眠っている。


告げられなかった答えを、賈牧は、ようやく、口にした。


「……討てると、考えておりました」


声が、かすれた。


「范鴻の千騎が、届けば。……その絵を、描いたのは、儂です。史連どの。儂は、あなたの命を、そこに、載せました」


灯が、ひとつ、ゆれた。


老人は、何も答えなかった。


勝った、と、誰もが、いう。六千が、四万を退けた。だが、あの絵のいちばん大きな一筆は、描きおえられなかった。史連の旗は、倒れた。郭巍の旗は、立っている。陸稜《りくりょう》、という若者が、ひとり、そこに、立ちふさがったがゆえに。


その名を、賈牧は、范鴻から、聞いていた。


   *


やがて、堂の戸が、静かにひらいた。


范鴻であった。


かれは、入口に立ったまま、すこしのあいだ、何も言わなかった。口数のすくない男である。


「軍師」


ようやく、范鴻が、いった。


「届きませんでした」


「おぬしの咎《とが》ではない」


賈牧は、ふりかえらずにいった。


「陸稜を、儂が、読めなかった」


「あと、三十歩でした」


「三十歩は、三十歩だ」


しばらく、ふたりとも、黙っていた。


「軍師。次は、いつ、来ますか」


賈牧は、すこし、ふりかえった。


「わからぬ」


「そうですか」


范鴻は、うなずいた。


「軍師は、勝った夜にも、次の話を、なさいますな」


賈牧は、答えなかった。


范鴻も、それ以上、何もいわなかった。かれは、一礼して、戸をしめた。


   *


翌朝、楊烈《ようれつ》が、賈牧のもとに来た。


砦で戦ったあの男は、傷を負っていた。左腕に、布を巻いている。それでも、背筋は、まっすぐであった。


「呉石《ごせき》らの名は、書きとめた」


「はい」


「それとは別に、ひとつ、いうておきたい」


楊烈は、卓のそばに、座った。


「おぬしは、いつも、来る敵を、待つ側じゃな」


賈牧は、すこし、目をあげた。


「汪野《おうや》のときも、そうであった。このたびも、そうであった。敵が来る日を、おぬしは、選べぬ。来る数も、来る道も、選べぬ。選べるのは、迎えかただけじゃ」


「そのとおりです」


賈牧は、すなおに、うなずいた。


「待つ側は、敵の時を、選べません。選べないものを、せめて、読むしかない」


楊烈は、しばらく、賈牧の顔を、見ていた。


「それで、おぬしは、よいのか」


賈牧は、すぐには、答えなかった。


卓の上の地図に、目をおとした。汪野、壱城、砦、国境。岱から澗への道が、細く、まっすぐに、描かれている。それは、岱がこちらへ向かってくる道であった。


「澗《かん》は、小さな国です」


賈牧は、ゆっくりといった。


「小さな国は、攻めるより、守ることを、先に覚えます。それが、悪いとは思いません」


「悪いとは、いうておらん」


楊烈は、ひとつ、息をついた。


「ただ、おぬしほどの頭が、いつも、人の描いた絵のなかで、動いておるのを見るのは、すこし、もったいないと思うてな」


賈牧は、かすかに、笑った。


それは、笑いというより、口の端が、わずかに動いた、というほどのものであった。


   *


史連の棺は、壱城から三日かけて、南へ運ばれた。


荒野を抜け、汪野の北のはずれに出たところに、小さな丘がある。汪野を一望する丘である。そこに、史連の墓が、掘られた。


葬いは、戦から五日ののちに、とりおこなわれた。


棺は、范鴻をはじめ、六人の古参の兵が、かついだ。丁六《ていろく》が、そのなかにいた。鼻の曲がった顔が、涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。


杜遠《とえん》も、いた。


かれは、列のうしろの方に、無言で立っていた。弓は、背に負ったまま、手は、拳をにぎりしめていた。あの暁、道ばたで、いくつの旗を貫いたのか、数えていなかった。数えない、と決めていた。


墓の前に、壱城から下ってきた兵たちが、ずらりとならんだ。


賈牧が、一歩、前へ出た。


弔いの言葉は、短かった。


「史連どのは、澗の臣でした」


それだけ、いった。


あとは、深く頭をさげた。


そのとき、兵の列の脇から、ひとりの男が、近づいてきた。


麦畑の、岑《しん》であった。


丘のふもとの村から、歩いてきたのである。粗末な布衣に、土のついた手で、一握りの麦の種を、持っていた。


岑は、墓のまえに、膝をついた。


麦の種を、ひとつかみ、土の上に、そっと、まいた。


それから、賈牧のほうを向いた。


「軍師どの」


「はい」


「麦を、蒔く季節にございます」


岑は、いった。


「来年の麦は、蒔けますな」


賈牧は、岑の顔を、しばらく、見ていた。


「蒔いてください」


やっと、そう答えた。


「刈るのは、来年の初夏です」


「はい」


岑は、うなずいた。


「来年も、麦は、色づきましょう」


賈牧は、何も、答えられなかった。


墓の上を、風が、渡っていった。丘の下の汪野には、刈り入れのおわった畑が、広々とひろがっている。その畑の、ところどころに、新しく、耕された黒い土が、見えていた。


史連は、この畑を見下ろして、眠ることになる。


   *


丘の麓には、いつのまにか、人が集まっていた。


汪野の民である。百人、二百人。老人も、女も、子を背負った者もいた。兵ではない。ただの民が、兵の列の外側に、ひっそりと、立ちつくしていた。


戦のあいだ、汪野の村々には、岱の兵が、一歩も入らなかった。麦畑は、踏まれなかった。民は、それを知っていた。誰が、それを守ったのかも、知っていた。


墓の前の儀がおわると、ひとりの老婆が、賈牧のほうへ、歩みよってきた。


「軍師さま」


老婆は、地に手をついて、拝んだ。


それが、波になった。麓の民が、いっせいに、地にひざまずいた。


「軍師さま」


「軍師さま」


声が、丘を、のぼってきた。


賈牧は、立ちつくした。


この声を、うれしいと思うべきなのか、わからなかった。民の声は、まっすぐで、うそがなかった。ただ、その声が、遠い都にとどくとき、どういう形をとるのか、賈牧は、すこし、考えてしまった。


   *


賈牧が壱城へ戻って、二十日あまりののち、王都から、使者が来た。


勅使である。供の者は、思いのほか、多かった。荷車に、祝いの品が、いくつも積まれている。壱城の門前で、使者は馬をおり、書状をかかげた。


「陛下は、このたびの勝利を、たいそう、お喜びである」


使者の声は、よく通った。


「史連将軍の戦死は、まことに、惜しい。追贈の儀は、追って沙汰する。范鴻の働き、賞するにあたいする。恩賞は、都へ上って、受けよ」


范鴻が、黙って、頭をさげた。


「また、澗の民より、軍師・賈牧を、総大将に、との声が、都にまで、とどいておる」


兵たちの列に、ざわめきが走った。


「陛下は、おおせられた。澗を守った者に、澗の軍を預ける、と」


使者は、書状を、ひらいた。


「軍師、賈牧。汝を、総大将に任ずる」


賈牧は、すぐには、動かなかった。


やがて、一歩、前へ出て、膝をついた。


「謹んで、承ります」


使者は、満足そうに、うなずいた。


「史連将軍の印は」


「ここに」


賈牧は、傍らの范鴻から、小さな包みを受けとった。包みをひらくと、あの印があった。史連が、五年のあいだ、懐に入れて歩いたものである。


使者は、それをうやうやしく、賈牧の手に、うつした。


掌のうえで、印は、冷たく、すこし、重かった。


使者は、去りぎわに、ふと、ふりむいた。


「そうそう。鄭全《ていぜん》どのも、このたびは、軍師どのの才に、いたく感服しておられた。『あれほどの器は、澗の宝。民が、陛下より軍師を慕うのも、無理からぬこと』と、陛下の前で、たいそう、称えておられましたぞ」


使者の顔には、悪意の影は、なかった。ただ、伝えられたことを、そのまま口にしただけの顔であった。


賈牧は、頭を下げた。


「恐れ入ります」


使者が、去った。


門の前に、風だけが、残った。


顔をあげたとき、賈牧の目は、すこし、細くなっていた。


   *


夜が、来た。


賈牧は、壱城の櫓の上に、ひとりで立っていた。


空は、よく晴れて、星が、いくつも出ていた。琴は、もう、傍らにはなかった。


かれは、卓をひとつ、そこに運ばせ、地図を、ひろげていた。卓の隅には、史連の印が、置いてある。


岱の領地の図である。


国境の城。そのむこうの、岱の都までの道。山。河。関。行軍の日数。そういうものを、賈牧は、見ていた。


見ているうちに、気づいた。


この図を、自分は、これまで、一度も、開いたことがなかった。


澗の図は、何度も、開いた。汪野。壱城。国境。あらゆる道を、あらゆる地形を、頭に刻みこんだ。しかし、岱の側の図は、これまで、見る必要がなかった。見る余裕も、なかった。


賈牧は、筆をとった。


岱の都にむかう道のうえに、すっ、と、細い線を、一本、引きかけた。


手が、止まった。


線は、途中で、切れた。


線の先は、澗の兵だけでは、届かなかった。


賈牧は、筆を、置いた。


星が、静かに、またたいていた。


そのとき、遠い北の地平に、ひとすじ、うすい流れ星が、はしった。


賈牧は、それを、見つめていた。


この夜から三年ののち、賈牧は、この図の上に、六つの国の名を書きこむことになる。

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